体験場所:埼玉県さいたま市南区
小さい頃から見知らぬ道を一人で歩くのが好きだった。そのためよく迷子になって母を困らせていたのを覚えている。この性格はいったいいつ頃から身に付いたのか正確には覚えていない。
父を亡くしたのは私が物心ついた頃だった。
それからというもの母が働き始め、それ以降、私は母と一緒にどこかへ出かけることがなくなった。ひょっとすると、私の性格はそのことに由来するのかもしれない。
父は大工の棟梁だったらしい。三十代で自分の工務店をつくり、何人かの職人を雇っていたと言う。
これは、後に母から聞いた話だが、大きな仕事を終えた父は職人たちを連れて温泉旅行へと出かけ、泥酔状態で湯に浸かり溺死した、と。
父の葬式のことはうっすらとだが記憶にある。父の亡骸が棺に入れられて運ばれていくのを私は見ていた。人の死というものがどういうものなのか、その時の私には理解することができなかった。だから悲しいという感情はなかったと思う。
父が死んでから母は小さな私と三つ上の兄を養うために仕事に出た。学もなく、経験もなく、また何かの資格さえなかった母ができる仕事と言えば限られてしまう。だから昼と夜の掛け持ちで働いた。
こんな状態だったから、学校が休みであってもどこかへ連れて行ってもらったという記憶が私には全くない。
比較的に社交的な兄はいつも友達と遊んでいたが、私には特別に親しい友人もいなかったのでいつも一人だった。
一人遊びは慣れていた。別に寂しくはない。家の前で砂遊びをしたり、地面に石で絵を描いたりした。それはそれで十分に楽しかったと思う。
そのような遊びに飽きると、私は散歩に出かける。目的などない。ただ気の向くままに歩く。まだ見たこともないような風景に出会うと私の胸は高鳴った。
こうした衝動的な行動はいつも私の心に何らかの影響を与えた。そして、その行動は数十年の歳月を経た今も変わらない。
私が通っていた幼稚園は自宅からけっこう離れていたので、通園には送迎バスを使っていた。
停車場では園児たちの親が常に送り迎えをしている。「おかえりなさい」と笑顔で迎える母親たちに、園児たちは笑顔で応えていた。
私の母は朝早くから仕事に出ていたので、私はいつも一人でバスを待ち、そして一人で家に帰った。
いつしか私は送迎バスに乗らず、一人で歩いて幼稚園まで通園するようになった。行きだけではなく、帰りも歩いた。そんな私を見ていた幼稚園の先生は、別に注意することなく出迎え、見送ってくれた。
自宅から幼稚園までは大人の足でも三十分はかかる距離である。幼稚園児の足なら倍近くはかかっただろう。それでも先生は始終笑顔でいた。私が送迎バスに乗らないことを咎めることはなかった。
幼稚園を卒園し小学校に入学した年の夏、母は東京の人と再婚することになった。
だから最初の小学校には一学期しか通うことがなかったため、友達という友達もそれほど作ることはできなかった。
一学期の終業式の日、久し振りに幼稚園へ行ってみたくなり、私は学校の帰りに幼稚園へ向かった。
幼稚園は既に夏休みだったようで、園内は静まり返っている。ただ、園庭ではお世話になった先生が箒で地面を掃いていた。
「先生」
つい懐かしくなり、大きな声を出してしまった。先生も随分と驚いていたようだ。
「小学校はどう?」
「うん。楽しいよ」
「そう。暑いね。アイスでも食べない?」
先生にお金をもらい、近くにあったパン屋でアイスを買いに行った。メロンの容器のアイスである。
私たちは園庭の隅に設置してあるベンチに座り、メロンの容器の蓋を開けた。
「そう言えば、お父さんは元気?」
「え?」
「君はいつもお父さんと通園してたでしょ。送迎バスがあるのに、お父さんが毎日送り迎えしてたよね」
「…………」
「どうしたの?」
先生は私の父が早くに亡くなったことを知らなかったのだろうか。
しかし、まだ幼かった私には先生のその言葉が何を意味しているのか知る由もなかった。
私はずっと一人で幼稚園へ行き、そして一人で帰っていたとばかり思っていた。だが、もしかすると亡き父が心配して、いつも私に付き添っていたのかもしれない。
あれから随分と月日が流れた。今となってはその真相を知ることはできない。
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