
投稿場所:鹿児島県S市 山の中の池
これは昔、まだ少年だった兄が体験した話。
当時、私たち家族は鹿児島県のK市に住んでいた。
その近所の山中に、有名な池があった。
何故有名だったのかというと、いわゆる『出る』、そう噂される池として名が通っていた。
山の道路は手入れされていて、舗装もされていたけど、山中には携帯の電波が通じなくなる場所もあった。
ただ決して山全体が圏外になるわけではない。山中の道路脇にあるその小さな池、その辺り一帯だけがなぜか圏外になってしまうようだった。
「万が一事故があっても、直ぐに助けが呼べない危ない場所だからな!」
と、大人は子供たちに池で遊ばないよう言い聞かせていた。
もしかしたらその過程で、子供たちを怖がらせて近付けないために、『出る』などと、大人たちが噂を流したのかもしれない。
用心のため、池の周りにはフェンスが設置されていた。
それほど子供達を近付けたくない場所のようだった。
しかし、『出る』という噂で効果があるのは小学生の低学年くらいのもので、やんちゃで好奇心旺盛な高学年ともなると、身体能力が追いつくのもあって、むしろ池のフェンスを乗り越えることが度胸試しとして流行っていた。
加えて、その池にはヌシと呼ばれる大きな魚がいるとの噂も立ち、釣り目的でフェンスを越える子供もかなりいた。
その日、当時中学生だった兄も、釣竿と釣り道具を抱えて池に向かったそうだ。
一緒に行くはずだった友人からは、急用だとかでキャンセルされた為、兄は一人で自転車を走らせ山へ向かった。
一気に山道を駆け登り、池を取り囲むフェンスの入り口で兄は自転車を止めた。
入口はもちろん強固な南京錠で閉ざされていた。
山全体は木漏れ日が差し込んで眩しいくらいだったが、フェンス越しに見た池はというと、覆い被さった大きな木の枝が水面に影を落とし、そこだけが周囲の明るさから浮くほど陰鬱な雰囲気を醸していた。
携帯電話を見ると、やはり電波状況は圏外を示している。
もし事故があっても助けてもらえない。
そんなことお構いなしの兄は、とりあえず自転車をどうしようかと辺りを見渡した。そのまま置いて行けば見つかってバレてしまう可能性がある。
フェンスは道路に面して設置されている。フェンスの中では、池を囲うように周囲に木が生い茂っている。それならば自転車ごとフェンスを越えられれば見つかることもなさそうだが、とても無理だ。自分一人、釣り道具を抱えて越えるのが精一杯だろう。
「やっぱり自転車はどこか他の場所に隠すか…」
とハンドルを握り直した時、視界の端に赤い何かが映った。
スカートだ。
フェンスの向こう、池のすぐそばに、血の気のない素足が立っているのが視界の隅に見えた。そのくるぶしまで覆った赤いスカートの端からは、ポタリポタリと水が滴っていた。
「人がいる!?」
兄は反射的に視線を上げた。
フェンスの向こうには、赤いワンピースを着た土気色の肌の女が立っていた。
腰まで伸びた長い黒髪。
その隙間から覗く目は充血して血走っている。
服も髪も肌もぐっしょりと濡れ、ついさっき池から這い上がってきたかのようだ。
生臭そうな水を滴らせた女は、 そのままグイッと左の手足を上げたかと思うと、信じられないほど無駄の多い動きで兄に近付いて来た。ガクッと左の膝が折れたかと思うと右の足がグンと伸び、右足の爪先が地面に付いた瞬間に左の足が伸びて来る。筋肉や関節、可動部の動きに違和感を感じる。
その女の異様な動きを兄は瞬きも出来ずにただ呆然と見ていた。
次の足が伸びた瞬間だった。
不意に女は地面を踏み切ることなく無造作に飛び跳ね、兄との間にあるフェンスに両手両足を掛けてへばり付いた。
女の血走った眼が睨みつけるように兄を見下ろした。
左右で全く別の形相。壊れたような女の顔に圧倒された兄は、ワナワナ膝から崩れ落ち、尻もちをついた。
「正直どうやって帰ったか覚えてないんだ。釣竿が折れてたからよっぽどビビってて、無我夢中だったんだろうな」
十数年経った今、兄は酒を傾けながら当時の体験を語った。
女から漂う泥臭い水の匂いと、濡れたワンピースの焦げたような赤色は、今でも鮮明に覚えているらしい。
幼かった私が当時の記憶にあるのは、あの池に行った事をしこたま怒られている兄の姿だけだった。
「もしも、あの女が生きた生身の人間で、誤って池に落ちてしまって、近くにいた俺に助けを求めただけだったとしたら…」
当時の兄はその可能性を憂慮し、池から逃げ帰ってきたあと、叱られることを覚悟で大人達に話したそうだ。
だが、結果は兄の杞憂だった。
兄の話を聞いて、大勢の大人が血相変えて池に向かった。
だが、女の遺体はもちろん、その姿も確認できず、フェンスを這った跡もなければ入口もしっかり施錠されたままだった。
「…なぁ」
と兄が私に向き直る。
「あの時のあの女、どっちだったと思う?自分がフェンスの外へ出たかったのか、それとも俺をフェンスの向こうに引き摺り込みたかったのか…どっちだ?」
「…知るか」
とだけ私は答えた。
兄がフェンスを越えなくて良かった、と、きっと当時の大人たちが兄を叱りながら思ったように、私も今さら安堵した。
「薄情なヤツ」
そう言って兄は笑いながら酒を煽っていた。
・・・あの池は『出る』
多分、兄はそれを確信していると思う。
あの町を出た今では詳しいことは分からないが、山中の池は今もあるらしい。
フェンスは定期的により強固なものに改修されているそうだ。
誰も、なん人たりとも越える事ができないように。
こちらからも。
向こうからも。
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