
体験場所:埼玉県の国道140号線から外れた旧道
これは今から3年ほど前、11月の深夜に体験した出来事です。
当時、私は仕事のストレスが溜まっており、気晴らしによく友人と深夜のドライブに出かけていました。
その夜も、大学時代からの友人であるS(こいつは私と違って少しオカルト好きです)を私の車の助手席に乗せ、埼玉の秩父方面へと向かい走り出しました。
深夜2時を回った頃だったと思います。
私たちは国道140号線を山梨方面へと向けて流していました。ご存じの方もいるかもしれませんが、秩父の夜道というのは独特の圧迫感があります。街灯が途切れると本当に真っ暗闇で、ヘッドライトの先以外は何も見えなくなるんです。
「せっかくだから、ちょっと脇道に入ってみようぜ」
Sがそんなことを言い出しました。
別に肝試しをするつもりはありませんでしたが、一本調子の国道に飽きていた私も、「まあ、ダムの方でも回って帰るか」とハンドルを切りました。
国道から外れたそこは、荒川の上流沿いを走る古い県道のような道でした。舗装はされていますが、車一台がやっとすれ違える程度の道幅しかなく、左手は切り立った崖(下が川)、右手には鬱蒼とした杉林が続いていました。
車内ではスマホをBluetooth接続して音楽を流していましたが、電波が悪くなったのか、突然音がブツブツと途切れ始め、雰囲気も悪いのでオーディオを切りました。
タイヤが砂利や落ち葉を踏む音だけが車内に響きます。
「……なぁ、あそこ」
急にSが声を潜めて前方を指さしました。
ハイビームの先、緩やかな左カーブのガードレール付近に、誰か立っています。
こんな深夜の山奥に人がいるはずがない。最初は看板か何かだと思いました。
しかし、車が近づくにつれて、それが間違いなく「人間」の形をしていることが分かりました。
服装は少し汚れたグレーの作業着のような上下。背格好からして小柄な男性か、あるいは年配の女性のようにも見えます。その人物は、ガードレールから身を乗り出すようにして、谷底の暗闇(川の方)をじっと覗き込んでいました。
夜釣りでもしているのか?
一瞬そう思いましたが、すぐに違和感に気づきました。
その人物の手には釣り竿がないのです。
その代わりというか、何か「赤い紐」のようなものを素手で握りしめていて、それがガードレールの下、真っ暗な崖下へ向かってピンッと張っているのです。
「おい、なんかヤバくないか?」
Sの声が震えていました。
私も本能的に「関わってはいけない」と感じ、アクセルを少し踏み込みました。
その人物の横を通り過ぎる瞬間、私はどうしても気になって、チラリと横目で見てしまいました。
両手で赤い紐を握り、まるで井戸の水を汲み上げるように、一定のリズムで手繰り寄せていました。シュッ、シュッ、と、紐が擦れる音が聞こえるような気がしました。
それがあまりに気味悪く、急いで通り過ぎようとすると、車のライトが一瞬その人物の横顔を照らした時、私は心臓が止まりそうになりました。
顔が、ないんです。
いや、正確には「のっぺらぼう」とかそういう類のものではありません。
顔の皮膚が極端に垂れ下がっているというか、溶けているというか……目や鼻の位置が判別できないほどグチャグチャに崩れていたんです。ただ、口と思われる部分だけが大きく裂けていて、そこがニタニタと笑っているように見えました。
「うわあああああ!!」
隣でSが絶叫しました。
私は無我夢中でアクセルをベタ踏みし、その場から一気に走り去りました。
バックミラーを見るのが怖くて、ひたすら前だけを見て走り続けました。
「見たか!? 今の見たか!?」
青ざめた顔のSはそう繰り返すばかり。
「何釣ってたんだよあいつ! 紐の先に何か付いてたぞ!」
Sが言うには、私たちが通り過ぎる瞬間、その人物が紐を一気に引き上げ、その先に「犬くらいの大きさの、黒くて濡れた塊」がぶら下がっていたのが見えたというのです。
結局、私たちは逃げるように山を下り、コンビニの明かりが見えたところでようやく車を停めました。二人とも冷や汗でびっしょりでした。
改めてお互いが見たものを確認し合うと、私が「顔が崩れていた」と言うのに対し、Sは「顔は見なかったが、紐の先の塊が微かに動いていて、人の手足が生えているように見えた」と言い、それが余計に薄気味悪く感じました。
翌日、私は昨晩のことがどうしても気になり、車のドライブレコーダーを確認しました。私の車には前後撮影できるタイプのドラレコが付いています。
PCにSDカードを読み込ませ、あの山道を走っていた時間のファイルを探しました。
映像には、確かにあの場所が映し出されました。
緩やかなカーブ、ヘッドライトに照らされたガードレール。
そこまでは昨夜見た光景と変わりません。
ただ、そこには誰の姿も映っていませんでした。
私たちが「うわっ!」と声を上げて加速する挙動は記録されているのに、肝心の「作業着の人物」だけが、まるで最初からいなかったかのように映像に残っていないのです。
「やっぱり幽霊だったのか……」
そう思ってブラウザを閉じようとした時、音声データに異変があることに気が付きました。
私たちがカーブを通り過ぎる直前、車内の会話や走行音に混じって、非常に低い、ノイズのような音が入っていたのです。
ボリュームを上げて、ヘッドホンで聞き直してみました。
ザザッ……というノイズの裏で、男とも女ともつかない、しわがれた声がはっきりとこう言っていました。
『……おもい』
「重い」なのか「想い」なのかは分かりません。
ただ、その声を聞いた瞬間、全身に鳥肌が立ち、すぐにデータを削除しました。
映像には映らないのに、声だけが録音されている。
逆にそれが、あそこにいた人物が生身の人間ではなく、この世ならざるモノだったという証拠のように思えてなりません。
私の個人的な見解ですが、あの辺りは昔から水難事故が多い場所だと聞きます。あの人物は、川で亡くなった誰か、あるいは亡くなった誰かを延々と引き上げようとしている「残留思念」のようなものだったのではないでしょうか。
Sが見たという「手足の生えた黒い塊」が何だったのか、今となっては確かめる術もありませんし、二度とあそこへ行くつもりもありません。
ただ、一つだけ確かなことは、秩父のあのカーブで、夜中、私たちが「何か」を見たということです。
もし皆さんが秩父へドライブに行く際は、国道から外れた細い脇道には十分気をつけてください。ガードレールの向こう側から、赤い紐が伸びているかもしれませんから。

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