体験場所:大阪府の自宅
私が専門学校生だった時のことです。
癌で長く入院していた祖父が、闘病の末に亡くなりました。
昔から煙草が好きで、癌が発覚してからは「体に良くないから」と家族の皆が必死に禁煙を促しても、決して聞き入れない頑固者でした。
手先が器用で、壊れたものを上手に修理してくれる、職人のような人でもありました。
前輪がパンクして、チェーンが切れてしまった私の自転車を、見事に修理してくれたときの嬉しさは今でも忘れられません。
頑固だけれど茶目っ気もあり、どこか憎めない素敵な祖父でした。
そんな祖父が入院生活に入ってからは、容体は悪くなる一方で、日に日に家族のことを認識するのも困難になっていきました。
「いよいよかもしれません」と、病院から知らせが入り、家族で駆け付けた時には、もう意識もほとんどありませんでした。
「おじいちゃん、私だよ!」と何度も呼びかけましたが、その声が届いていたかも分からないまま、祖父はその日の晩、静かに息を引き取りました。
「もっとちゃんと、お別れが言いたかった」
「もう少し早くお見舞いに行っていれば話ができたかも知れない」
自宅に帰ってから、そういった悔しさや寂しさが込み上げてきました。
いつもは気丈な母も、この日ばかりは言葉少なに涙を零していました。
それでも通夜や告別式の準備はしなければならず、その夜、家族や親族が集まって、慌ただしくしていた時のことでした。
何か物音がしたわけでもないのですが、私は無性に玄関が気になったのです。
(あ。行かなきゃ。)
なぜだか分かりませんが、私は慌ててリビングを出て玄関に向かいました。
すると、玄関の引き戸の前に、我が家の飼い犬がちょこんと、こちらに背を向けて座っていました。
磨りガラスの玄関扉は閉まっているし、その向こうに人影もありません。
何も見えないし何も聞こえない、それなのに、確かに『そこに』人が立っている気配を感じました。
言葉で説明できるようなものではなく、直接肌に伝わるような人の気配。
それを感じながら、誰もいないはずの玄関でぼうっと立っている私の前で、飼い犬が尻尾を振りながら短く「わん」と鳴きました。
それは、家族や親しい人を出迎えるときの挨拶です。
(ああ…やっぱり。)
舌を出しハッハッと喜ぶ飼い犬の表情を見て、私はそこに居るのが祖父なのだと確信しました。
恐怖や不安は全くなく、ただ祖父の存在、その温もりだけが感じられました。
「おじいちゃん、会いに来てくれたの?」
そう声を掛けると、閉まったままの引き戸が一度だけ、カタンと鳴って、そのまま祖父の気配は消えてしまいました。
私はこれまで、霊体験と呼べるようなものを経験したことはありませんし、霊というものがこの世に存在するのかどうかも分かりません。
ただ、あの日、確かに祖父が私に会いに来てくれたのだと、私は今でも信じています。
病室での最後の呼びかけに答えることができなかったから、きっと空へ旅立つ前に、挨拶に来てくれたのだと。
私はこのことを家族にも話していません。
変に不謹慎な誤解を与えることを避けたかったから。
ただ、もしかしたらあの日、母や他の家族も、何か別な形で祖父の存在を感じていたかもしれないと、私はそう思っています。
きっと頑固な祖父は、みんなに挨拶を済ませるまで、すっきり旅立てないんじゃないかな、と。
今でも、祖父の仏壇に手を合わせると、あの日の夜を思い出します。
次の法事で皆が集まる時には、「あの日おじいちゃん来てくれたよね」と、笑って話してみようかなと思っています。
コメント