
体験場所:神奈川県横浜市の古い団地
当時、横浜市〇〇区にある築50年以上の団地に家族で引っ越して来たばかりの頃でした。
家賃が安く、母の実家にも近いし、私の大学通いにも便利で、とても好条件の物件でした。
それに、古い団地ではありましたが、住民同士のつながりも強く、引っ越して来たばかりの私たち家族にとっても、すぐに居心地の良い場所だと感じられるようになりました。
引っ越して来て2週間ほどが経った頃でした。
夜中の3時過ぎ頃、隣の部屋から、「ただいま」と、誰かがつぶやく声が壁越しに聞こえました。
でも、隣は空室のはずなんです。
その時は気のせいかと思ってそのまま眠ったのですが、それから数日にわたり、夜になると、「おかえり」とか「ごめんね」といった声が壁越しに聞こえてくるようになりました。テレビやラジオの音ではない、小さな声、でも確かにそれは人の“生声”でした。
後日、気になって管理人に聞いてみると、やはり隣は空室とのこと。
ただ、以前そこに住んでいた初老の女性が、数年前に孤独死していたことを聞きました。見つかったのは死後しばらく経ってからだったそうです。
彼女はずっと誰かの帰りを待っていたのではないか、と、管理人は寂しそうに言いました。
その夜、また壁の向こうから声がしました。
「おかえり」と。少し嬉しそうな小さな声。
そのとき初めて私自身が、怖いというより、胸の奥がひどく苦しくなるような寂しさを感じていることに気が付きました。
でも、隣室の声に対して「返事」をするのもはばかられ、ただ黙って聞き流しているのも辛い――そんな気持ちでしばらく夜を過ごしていました。
それからも声は不定期に聞こえてきました。
ある時は録音してみようと試みたのですが、なぜか声は機械に残りませんでした。
その頃には、確かに“今も隣にいる”のだと私は確信していました。
それからしばらくして、私は自ら隣の部屋に向かって話しかけてみることにしました。
向こうの声に対する返事ではなく、こちらから先に声をかけようと。
誰かが聞いていると思うと馬鹿げたことのようにも感じましたが、その夜、私は隣室の壁に向かって小さな声で「おかえり」と声を掛けました。
すると、しばらくの静寂のあと、ふわりと「ありがとう」と返ってきたような気がしました。
それが幻聴だったのか、本当に聞こえたのかは自分でもはっきりとはしません。
ただ不思議なことに、その晩以降、あの声はぱったりと聞こえなくなったのです。
もしかすると、私の言葉が何かの区切りになったのかもしれない。「もう待たなくてもいい」と思えたのかもしれない。そう考えると、少しでも声の主を救えたのではないかと、そんな気持ちになりました。
今ではその団地から引越し、ほど近いところで暮らしておりますが、あの団地の前を通る度に、ふと耳を澄ませてしまいます。
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