
体験場所:千葉県松戸市 〇〇線沿いの古い木造アパート
これは、私が5年ほど前に実際に体験した話です。
当時、私は仕事の都合で千葉県松戸市にある、築30年を超える木造アパートの2階に住んでいました。
家賃が相場より1万円ほど安く、かといって事故物件というわけでもない、ごく普通のアパートでした。
異変に気付いたのは、入居して3ヶ月が過ぎた頃です。
私の部屋は202号室でしたが、寝室にしていた和室の床の隅、ちょうど押し入れの横あたりに、直径5センチほどの不思議な「へこみ」があることに気が付きました。
古い畳の上からカーペットを敷いていたのですが、その場所だけが不自然に沈み込んでいるのです。
最初は単なる建物の老朽化だと思っていました。
しかし、ある夜の午前3時を過ぎた頃、床下から奇妙な音が聞こえてきたのです。
「……ゴン。……ゴン。……ゴン。」
鈍く、重いもので床を突き上げてくるるような音です。
真下の102号室から聞こえてくるようでした。
それからというもの、夜中になると、音は毎日のように聞こえてきました。
最初は階下の住人が何かを組み立てているのか、あるいは壁に釘でも打っているのかと思いました。でも、その音が聞こえてくるのは決まって午前3時13分。それから1分ほどで音は止むのですが、毎日そんな時間に、あんな音の出る作業をするだろうかと疑問でした。
ある夜、私は好奇心に駆られ、音が鳴っている最中、その「へこみ」の上に指を置いてみました。
その瞬間、ゾッとしました。
下から突き上げる振動が直接指先から伝ってきたのですが、その感触は無機質なものとは思えませんでした。
まるで、重い棒の先に「柔らかい肉」を巻き付けて、それで全力で天井を突き上げているような、そんな生々しい感触だったのです。「バンッ」と天井に肉が触れた瞬間、「ゴッ!」と肉ごと天井を突き上げて、「グリィッ」と肉がえぐれるような、不快な感触でした。
階下の102号室には、物静かな70代くらいの男性が一人で住んでいました。挨拶をしても小さく会釈を返すだけの、害のなさそうな老人です。
あの人がそんなことを・・・?と、にわかには信じられませんでした。
そんな夜がしばらく続いたある日の夕方、私は意を決して階下の老人の部屋を訪ねることにしました。
「あの、すみません。夜中に上まで音が響くようなのですが……」
そう切り出すと、老人は私の顔を凝視し、震える声でこう言いました。
「……まだ、届いていますか」
老人の目は血走り、部屋の奥からは線香とも腐敗臭ともつかない、妙に鼻をつく独特の臭いが漂ってきました。それ以上、老人は何も語らず、ピシャリとドアは閉められてしまいました。
それから数日後でした。
自室で孤独死しているその老人が発見されたのは。
その日以来、私の部屋の音は止みました。
警察が入り、しばらく騒がしい日が続いた数日後のことでした。
色々あったためか、私の部屋を大家さんが挨拶に訪ねてきました。
その際、私は思い切って大家さんに、夜中に聞こえていた音と、それを伝えた時の老人の言葉について尋ねてみました。
すると大家さんは顔を曇らせ、渋々こう教えてくれました。
実は、私が住む202号室の部屋では、前の前の住人が孤独死した過去があるそうなのです。
しかも、その亡くなった住人が倒れていたのが、ちょうどあの「へこみ」のある場所だったらしいのです。
ただの病死でしたが、発見が遅れたため、腐敗して流れ出した体液が床下まで浸透してしまったとのことでした。
そんなことがあったせいか、それ以来102号室の老人は、「上が重い、上がうるさい」とノイローゼ気味になり、毎晩、長い突っ張り棒で天井を叩き続けていたそうです。
やっぱりあの老人が天井を…と思い巡らせていると、「でもね…」と大家さんは続けてこう言いました。
「あのおじいさんが亡くなった後、102号室を片付けた業者さんの方が言っていたんですよ。天井には棒で突き上げた跡なんて一つもなかったし、それどころか、天井板が不自然に『下に』向かって膨らんでいたって……」
意味が分かりませんでした。突き上げていたはずの天井が『下に』膨らむなんて。最初は何かの間違いだろうと思ったのですが、少し考えてハッとしました。
私の部屋の床は「へこんで」いました。それは下から老人が突き上げていたのが原因なのではなく、床が「へこんで」しまうくらい、何かが床を突き抜け下へ向かっていた。老人は、それを必死に押し戻そうと天井を突き上げていたのではないか。
そんなふうに私は思い至ったのです。
現在、そのアパートは取り壊され、駐車場になっています。
老人が亡くなった後、私の部屋の「へこみ」は日に日に深くなり、最後には畳の下の板が飴細工のように柔らかくなっていたのを覚えています。
あの老人が本当にただの孤独死だったのか、あるいは「何か」を押し戻すことに力尽きてしまったのか、今となっては確かめる術もありません。
ただ、今でも夜中の遅い時間になると、当時の指先に残る「柔らかい肉がぶつかる感触」が、蘇ってくる気がするのです。

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