
体験場所:静岡県H市/○○駅から徒歩10分くらいの下宿(木造2階)
学生の頃、駅から少し離れた木造2階の安い下宿に住んでいた。
家賃は3万円台で、壁は薄く、廊下を誰かが歩くと天井がミシッと鳴る。静岡の田舎にはよくある古くて癖のある建物だった。
住み始めて1か月ほど経った梅雨の夜のこと。
日付が変わろうという頃だった。机に向かってレポートを書いていると、「コン、コン」と乾いた音がした。最初は自分の部屋のドアをノックされたと思ったが、音は明らかに机の横、隣室の壁からだった。
隣の部屋は空室だと聞いていた。試しに壁を軽く叩くと、間を置かずに向こうから「コン、コン」。回数まで揃っている。気味が悪くなり、それ以上は反応せず布団に入ったが、今度は天井から「トン…トン…」と一定の間隔で音が鳴り始めた。時計を見ると0時過ぎ。雨音以外は静かな夜だった。
翌日、同じ下宿の1階に住んでいる同級生にこの話をした。
すると彼も、「雨の日の夜、天井が一定のリズムで鳴る」と言う。彼の部屋は俺の真下で、音の位置が上下で一致しているらしかった。ただ彼にとっての天井とは、俺にとっての床ということになる。
数日後、大学帰りにその同級生と雑談していた時、彼がふと思い出したように言った。
「そういえばさ、この辺、〇〇寺あるだろ」
俺は一瞬でピンと来た。地元では割と有名な寺で、心霊話が好きなやつなら一度は名前を聞く場所だ。
「夜に近づくと白いのを見るとか、行方不明者が出たとか、昔から色々噂あるよな」
そう返すと、彼は少し声を落として言った。
「下宿の裏道、あの寺に向かう古い参道だったらしい」
おそらく夜中の音の原因について言いたいのだろうが、正直、その時はこじつけだと思った。
ただ、気になる点はあった。壁を叩く音がする夜は、決まって雨が降っている。そして、○○寺の噂も「雨の夜」「夜更け」という条件がやたらと多い。
その週末、雨予報の日に二人で確認することにした。
俺は2階、自分の部屋で待機。同級生は1階で天井を意識して待つ。
0時前後、例の「コン」という音が壁からした。俺が反応せずにいると、少し間を置いて、今度は天井を「…トン」。
同時刻、同級生からLINEが来た。
「今、天井が鳴ってる」
位置も、時間も、ほぼ同じ。建物の“同じ一点”、俺の部屋を上と下と横から叩かれているような感覚がした。
後日、大家にそれとなく建物のことを聞いた。
「昔からあるんですか?」
と世間話の延長から音のことを聞いた瞬間、大家は一瞬だけ言葉に詰まった。
「…古いだけよ、木造だから音もするし」
と大家は笑っていたが、その反応が妙に頭に残った。
俺の部屋、もしくはこの下宿自体に、何か秘密があるように思えた。
決定的だったのは、夏休みの前半。数日帰省して戻ると、机の横の壁紙が不自然に浮いていた。
湿気のせいだと思って指で押すと、なにか指に感触があった。壁紙を少しめくって裏を覗くと、壁紙の下の薄い板に、何本もの細い引っかき傷があった。同じ場所を円を描くように、何度もなぞった跡。工具でも、ネズミでも説明しづらい痕だった。
その夜も雨が降った。
音はしたが、もう壁を叩き返す気にはなれなかった。
○○寺の噂、参道の件、壁の傷跡。それらが全部つながって見えてしまったからだ。
秋に引っ越すことを決め、最後の日に大家へ挨拶をした。
玄関で靴を履いていると、背中越しに小さな声で言われた。
「……壁、叩かないでね」
音のことは以前に尋ねて以来、大家には何も言っていない。なぜこのタイミングで、と思った。
俺は返事もできず、「はい」とだけ答えて下宿を出た。
あれが何だったのかは今も断定できない。
寺の亡霊だと言い切るつもりもない。
ただ、雨の夜、同じ場所から繰り返される音と、壁の内側に残っていた痕跡。
○○寺の噂を意識してからは、あの現象を「ただの建物の軋み」と片付けることが、どうしてもできなくなった。

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