体験場所:東京都S区
知人男性の話です。
仮にXさんとしておきましょう。
Xさんはどちらかと言えば気が弱く、控え目なタイプでした。特に、どういうわけか痩せ型で年配の男性が苦手らしく、そういった人の前では怯えた表情を見せることもありました。
ある時、仕事の都合でXさんも含めた数人で食事をした際、酔ったXさんが自分の昔話と一緒に、その理由を話してくれたことがありました。
Xさんはやや事情のある出生らしく、その生い立ちも一般的な人とは少し違うようでした。
幼い頃の住まいは、父親が管理している物件を母親と一緒に転々としていたそうで、当の父親はたまに顔を見せる程度だったと言います。
転々と言っても遠くへ引っ越すようなことはなく、S区にある複数の雑居ビルを行ったり来たり。今思うと、消防法的に問題のある物件や、そもそも人が住むのは違法ではないかというような物件もあったそうです。
隣人が違法業者であることも珍しくはなく、ビルには警察が度々訪ねて来るような部屋もあったらしいのですが、その頃にはXさんの感覚もどこか浮世離れしていて、全く気になることもなかったと言います。
そんな雑居ビルですから、もちろん周囲の治安は最悪ですし、物件にもよりますが部屋の設備は無機質なものが多く、部屋は広くて豪華なのにキッチンは形だけの粗末なものだったり、お風呂がなくてシャワーブースのみの物件というのも多く、そんな部屋に住んでいた時はよく銭湯へ通っていたと言います。
その頃、Xさんはまだ小学生でしたが、銭湯へは一人で通っていました。
それでも今よりまだ人情のある時代だったのでしょう、周囲の大人が優しく色々世話を焼いてくれたそうです。
そんな優しい大人たちの中に、あの男がいました。
その顔は、指名手配中の連続殺人犯のものでした。
当時、Xさんが通っていた小学校のすぐそばの交番前には、指名手配犯の看板があり、人相の悪い写真と物騒な文言は、好奇心とともに恐怖の対象として子供たちの注目の的でもあったそうです。
そこで目にした連続殺人犯の顔を、Xさんが通う銭湯で目撃したそうなのです。
本来なら交番に通報すべきなのでしょうが、まだ幼いXさんにはそんなこと恐ろしくて出来ませんでした。
男は時にXさんに籠を取ってくれたり、周囲の大人と同じように優しく、ごく自然な様子で周りとも接していましたが、常連たちの談笑の輪には入らず、当たり障りのない相槌を打っては何時の間にかいなくなる…そんな感じだったそうです。
だからXさんも、あえて騒ぐことはせず、あくまで気が付いていない振りを貫こうと考えたのだそうです。
銭湯で連続殺人犯を認識して以来、Xさんは指名手配犯の看板を目にすることを恐れていました。へんに関わりたくなかったそうです。
「でも、やっぱり悶々としていたんだと思います。」
そう言いながら、Xさんは続けました。
ある日の学校の帰り道、一人で交番の前を通りかかったXさんは、ふと足を止め、看板を見上げました。
そこにはやはり、あの銭湯の男の顔がありました。
痩せ型で、実物はこの写真よりも少々老けてはいますが、あの男に間違いありません。
すると、なぜかXさんは、何を思ったのかその殺人犯のポスターを指差したのだそうです。
一瞬の後、ハッと我に返り指を引っ込めたXさんでしたが、自分のその不自然な行動に気が付き、思わず辺りを見回しました。
目が留まりました。
その視線の先に、あの男がいたんです。
銭湯の男はポスターより少々老け込んではいますが、間違いなく交番の写真と同じ、連続殺人犯です。
男はXさんがポスターを指差したことを見ていました。
Xさんは凍り付き、そのまま交番に飛びこもうかと思いましたが足が動きません。
すると、男はXさんとはっきり目があったにも関わらず、しらッとした顔でXさんの真横を通り過ぎ、堂々と交番の前を歩いて横切り向こうの方へ消えて行きました。
Xさんはハーハーと短い呼吸を繰り返しながら、その姿が見えなくなるまで黙って見送っていたそうです。
しばらくして、ようやく落ち着いたXさんは、そのまま家に帰り、それ以降、怖くて家の外に出ることが出来なくなりました。
学校にも行かず、もちろん銭湯にも行けなくなり、一日中、家の中で呆然自失と過ごすようになったのだそうです。
しかし、学校に行かないことに関しては寛容な母親でしたが、銭湯に行かずにいることは許してくれませんでした。
いい加減に体の垢が溜まってきた頃、いよいよ母親はXさんを引き摺るように銭湯に連れて行きました。
銭湯の前まで来てもXさんは母親に抵抗を続けましたが、とうとう観念し男湯へ入ったのだそうです。
そこには、常連のおじさんたちはいましたが、あの男の姿はどこにも見当たりませんでした。
Xさんは心底安心しました。
それに常連のおじさんたちの顔を見ていると、
「大丈夫、ここには守ってくれる大人たちがいるじゃないか。」
と、Xさんは常連の大人たちを頼もしく感じ、安心して服を脱いで浴室へ向かい、勢いよくカランを回して慣れた手順で身体を洗い始めました。
すると、誰かがすっと後ろに廻り、
「流してやるよ」
と言うと、桶のお湯をザーッと背中に掛けてくれました。
「ありがとうござい…」
と言いかけて、Xさんは背筋が冷え上がりビクッとして固まりました。
背中に掛けられたのは、冷水でした。
でも、それ以上に背中が凍えたわけは、目の前の鏡越しに、自分の後ろにいるあの男の顔を見たからです。
冷水より冷たいその男の目に射竦められ、Xさんの呼吸は一瞬止まりました、
すると男はXさんの背中をもう一度冷水で流すと、
「ボクはいいこだね」
とだけ言って出て行ったそうです。
鏡越しに見える浴場には湯気が立ちこもり、しばらくXさんは呆然とそれを眺めていました。
この後どうやって家に帰ったか、Xさんは覚えていないそうです。
それどころか、この時の恐怖とショックで、銭湯の男のことも、連続殺人犯のことも、指名手配の看板のことも、全部Xさんの頭から消えてしまったそうなのです。
その後、Xさんは男のことを思い出すこともなく、再びS区の雑居ビルを転々と移り住みました。
数年後、父親から与えられたN区のマンションに住むようになった頃には、銭湯通いもなくなったそうです。
ところがある日、Xさんはあるテレビニュースに釘付けになりました。
それは、S区の病院で死亡した身元不明の男性が、何年も潜伏したまま逮捕を逃れていた連続殺人犯であることが分かった、というものでした。
そこに映し出された男性の写真を見て、Xさんの封印していた記憶が甦りました。
それは間違いなく、あの銭湯の男でした。
交番の前を堂々と通り過ぎる大胆な行動。
背中に掛けられた冷水の感覚。
「ボクはいいこだね」という優しい声が孕む黒い毒味。
その瞬間、その全ての恐怖が生々しく蘇ったのだそうです。
痩せ形で年配の男性、その条件を満たしてしまうと、どうしても今でも萎縮してしまうと語るXさん。
そして、自分は太らない体質なんだと悲しそうに語るXさんは続けてこう言いました。
「もう少し歳をとると、自分も痩せ型の年配になってしまう…」
それが堪らなく怖いと、口元に笑みのようなものを残し、目を伏せたままXさんは語りました。
「だからもしも自分が発狂したら、原因はあれか、と思って笑ってくださいね」
と、顔を上げたXさんは冗談めかして言いましたが、そこにいた誰からも、笑みが漏れることはありませんでした。
あれから7年。
もしもXさんの体質が変わっていなければ、今頃、Xさんは「痩せ型の年配男性」になっているはずです。
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