体験場所:広島県広島市の某ホテル
これは私が学生の頃、部活の大会で広島へ行った時に体験した話です。
真夏の広島は、じりじりと焼けるような暑さでした。
大会数日前から広島入りしていた私たちの部は、現地入りしてからも練習に余念がありませんでした。
その日も大会前の練習試合を終えて、クタクタになってホテルに戻りシャワーを浴びました。
夜にはみんなで食事に出掛ける約束をしていましたが、シャワーで火照った体にエアコンの冷たい風が心地よく、私は(少しだけ…)と、うつ伏せのままベットに倒れ込むと、そのまま寝入ってしまったのです。
ハッと気が付いて、ベットに備え付けの時計を確認すると、もうホテルを出るまで30分の余裕しかありませんでした。
(ヤバい!?遅れる!!)
そう思って、急いで支度しようと起き上がろうした時でした。
自分の体が全く動かないことに気が付いたのです。
(ああ、金縛りか…毎日練習でクタクタに疲れてるから…)
と、起きたばかりの私の頭は、焦っている割にぼんやりと、そんな風に考えていました。
でも、ゆっくりと意識が戻ってくるに連れて、だんだんと気が付いてきたことがありました。
エアコンが効いて涼しく快適な部屋のはずなのに、私の身体はとても熱く、汗が額を流れ落ちていたのです。
それに、とにかく喉が焼けるように熱く渇いていて、水が飲みたくて仕方ありません。
それなのに、体は全く言うことを聞かず、
(お願い。早く解けて!)
と、うつ伏せのまま動かない体に力を込め、全力で金縛りに抗っていた時でした。
ふと視界の隅に、動く何かが見えたのです。
唯一自由が利く視線をそちらに向けると、私の心臓はドクンと大きく脈打ちました。
ベットから少し向こうの床の上、そこに這いつくばって蠢く黒い人影があったのです。
「え!?何!?誰、この人!?」
人影は身悶えするようにグネグネと体を動かし、こちらに向かってゆっくりと近付いてきます。
「え?え?え?え!?」
何がなんだか分からず、一気に高まる鼓動を感じながら、私はとにかくその黒い人影から目が離せずにいました。
早く逃げたいのに体は動かず、私は何も出来ないまま、とにかくその人影を凝視していたのです。
すると突然、突っ伏すように蠢いていたそれが、頭と思しき部分をムクリと持ち上げたかと思うと、そこにあった炎のように赤く揺れる二つの眼光で真っ直ぐ私の目を見つめて、
「水ぅ~~水ぅぅをぉ~くださいぃぃ・・・」
と、絞り出すように、息苦しそうな声を発したのです。
唐突に(水が欲しいのはこっちだ!)と、そんな声が頭に浮かんだ瞬間、私の目にあるものが飛び込んできました。
目の前にあった窓の外、その先に、原爆ドームが見えたのです。
外の空は赤黒く、今が何時なのか、夕方なのか夜なのか分からない色をしていました。
その瞬間ハッとしました。
今、目の前にいる黒い人影、この人は、この広島の地で、かつて不幸にも被爆された人なのではないか?
原爆ドームを包む不穏な空の色、目の前で水を求め苦しんでいる黒い人影、そしてこの広島が持つ悲しい歴史、それらが全て一つに繋がった気がしました。
でも、そう確信しても、何をどうしたら良いのか分からず、私は必死に腕を伸ばし、
『ドンッ』
と、枕元に置いてあったペットボトルを払うように床に落としました。
すると、一瞬で金縛りは解け、床を這っていた黒い人影も姿を消していたのです。
しばらく呆然としていました。
今見たものは何だったのか?
本当にこの地に眠る被爆者だったのか?
私に何かを訴えようとしていたのか?
結局、考えても確信が得られるものは何もなく、ハッと我に返った私は、直ぐに着替えてみんなとの待ち合わせ場所へ急ぎました。
「顔色悪いけど、大丈夫?熱中症じゃない?」
遅れて集合場所に現れた私を見て、みんなが心配そうな顔で声を掛けてくれました。
確かに自分でも、表情は強張り、普段の感覚に戻れていないのが分かります。
隠すようなことでもないので、信じてもらえるかは分かりませんが、私はみんなにさっき体験したことを話してみたのです。
すると、私の話を聞いていた中の一人の子が、明らかに様子が変わった事に気が付きました。
見開いた目はまるで虚空を見つめ、右手の指を数本あてたその唇は、わなわなと震え青ざめています。
「…どうか、したの?」
と、その子に声を掛けてみると、先程よりも確かに青白い顔をした彼女が、震える声でこう言ったのです。
「私も…私もこのホテルで、全く同じことがあった…」
この一言で、最初は冗談半分に聞いていた他の子たちも急に真顔になって、
「……え?……嘘でしょ?」
と誰かが言ったのを最後に、急に私たちは全員黙り込んでしまいました。
話が真実味を帯びるほど、どう対処していいのか分からず、私たちの誰もが次の言葉を継げずに立ち竦んでいる時でした。
「あの、すみません。少し、いいですか?」
そう言って声を掛けて来たのは、ホテルの従業員の方でした。
「すみません。お話が聞こえてしまって…それで、あの、少し、私からお話させて頂いても、よろしいですか?」
申し訳なさそうにそう話す従業員さんに促されるまま、私たちはこんな話を聞かせてもらったのです。
原爆ドームからほど近いそのホテルは、一番被害の大きかった爆心地だったのだそうです。
原爆が投下された後、多くの人々が水を求め川を目指し、その途中、力尽きた方々の遺体は、正にホテルの立つその土地で、埋められたり焼かれたりしたのだそうです。
時折、このホテルの利用者の中に、私たちと同じような体験をしてフロントに駆け付けて来る方がいるそうなのですが、それは特定の部屋の宿泊客に限ったことではなく、どの部屋に宿泊するお客様からも同じような体験談を聞くことがあるのだそうです。
何度もお祓いをしたし、ホテルを建てる際には念入りに地鎮祭を行ったにも関わらず、ホテル開業以来こうした体験談を訴える宿泊客が後を絶たないのだそうです。
ただ、これまでの宿泊客の訴えを聞く中で、一つだけ分かった事があるそうなのです。
「この現象を体験される方は、全て、県外から来たお客様に限られているのです。」
と、初めて確信めいた言葉を使った従業員のその方は、続けて、
「きっと、この広島という地に起きた信じられないような未曽有の悲劇を、県外の方にも、もっと言うと全ての日本人、そして世界が、忘れないで欲しいという願いを、被害に遭われた方々が訴えているのだと、私共ホテルスタッフはそう考えております。」
と、少しだけ語気に含め、その従業員の方は話してくれました。
その翌日、私たちは原爆ドームと平和記念公園を訪れました。
そこには、これまで学校の授業で知ることのなかった現実が、生々しさを残したまま存在していました。
戦争当時、私よりも若いまだ年端もいかないような少年が、家族に向け、これから死にゆく自分の気持ちをしたためた手紙を読んだ時には、胸を強く締め付けられる思いがしました。
犠牲に会われた方々が、どうか安らかに眠ることができるように、絶対に同じ過ちは起こしてはいけないと、深く心に刻み込む体験となりました。
焼けるようなあの喉の渇き、あんな体験はもう二度と、誰の身にも起こらないと信じています。
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