
体験場所:青森県K市N温泉街
これは昨年の冬、青森県K市のN温泉街で体験した話です。
僕は介護施設で働いております。
その日は夜勤明けの休日で、僕は温泉に浸かりたくて一人でN温泉街へ日帰りで出かけました。
雪は小降りでしたが、それでもN温泉街の旧道の方は除雪が追いついておらず、人通りもほとんどありませんでした。僕は共同浴場に車を停めると、薄っすらと雪が積もる旧道を興味本位で少し歩いてみました。
少し歩くと、雪に埋もれるようにあった古びた木造三階建ての建物が目に止まりました。看板の文字はかすれていて読めませんが、元は温泉旅館だったはず。十年以上前に閉鎖されたと地元ニュースで見た覚えのある建物でした。
建物の前には「立入禁止」の札がありましたが、敷地内のまっさらな雪の上には新しい足跡がありました。地元の子が探検にでも入ったのだろうかと思い、そのまま通り過ぎようとした時、「カラン……」と何かが落ちる音がしました。
最初は屋根から雪が落ちたのだと思いました。雪国ではよくあることです。でもすぐにそんなはずないことに気が付き、足を止めました。
金属が床を転がるような音でした。それに音は建物の中から聞こえました。それは人の息遣いを感じるというか、妙に生々しい音に聞こえたんです。
一見して廃旅館にしか見えないけど、もしかしたら中でまだ誰か生活しているのだろうかと気になって、一歩近づいた時でした。ピューっと吹いた寒風に玄関脇の障子が押され、スッと半分開いたかと思うと、そこから一瞬、白い湯気のようなものがふわりと流れ出ました。
まるで誰かが中で風呂を沸かしているかのようでした。その温泉旅館は閉鎖されたという地元ニュースが再び頭をよぎり、なんだか背筋が冷たくなりました。
その時、背後から年配の女性の声が聞こえました。
「そっち行っちゃだめだよ」
振り返ると、雪の中に小柄なおばあさんが立っていました。真っ黒な和装に手ぬぐいを頭に巻いていて、まるで昭和に撮られた写真から抜け出してきたような格好でした。
「あそこはね、夜になると女の人が泣くのさ」
おばあさんはそう言って僕の袖を軽く引いてパッと放すと、そのまま坂の下の方へ歩いて行ってしまいました。慌ててお礼を言おうとしたのですが、吹雪のせいかおばあさんの姿はもう見えませんでした。いつの間に雪がこんなに強くなっていたのか、僕は気が付きませんでした。
結局その日は温泉に入り、夕方には帰宅しました。
後日、同僚の女性(地元出身)にその話をすると、「ああ、あの旅館ね」とあっさり言われ驚きました。
話を聞くと、昔、あの旅館で働く従業員の女性が、湯沸かし室で冬場に亡くなる事故があり、それ以来、夜になると泣き声が聞こえるという噂があるそうです。しかも、「泣き声が聞こえた人は、必ず誰かに止められる」という話まであると言います。
ぞっとしました。
僕が聞いたのは金属が床を転がるような音だけでしたが、もしかしたら泣き声を聞く前に、あのおばあさんが止めてくれたのかもしれません。一体あのおばあさんは誰だったのでしょう。
念のため翌週、明るいうちに同じ場所を訪ねましたが、道沿いに人家はなく、あのおばあさんは一体どこからやってきた人なのか、いよいよ謎でした。あの廃旅館の前は雪で覆われていましたが、玄関の脇の障子だけ、あの日と同じように半分開いたままでした。
その後も僕は何度もN温泉に行っていますが、旧道の方には近づかないようにしています。「カラン……」という、やけに生々しい金属音を思い出すだけでも気味が悪いのに、もし女性の泣き声なんて聞いてしまったらと思うと、ちょっと近づこうとは思えません。
ちなみに、今年の春、同僚に誘われて再びN温泉に行きました。それで旧道を通ることになったのですが、雪が溶けてもやはり旧道は静かなものでした。そのままあの廃旅館の前を車で通った瞬間、窓ガラスに白い指先の跡が浮かび、すぐに消えました。助手席の同僚には何も見えていなかったようです。
もしかしたら、あの旅館では、今も誰かが湯を沸かし続けているのかもしれません。

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