体験場所:東京都 市部
私が高校生の時の話。
一時的に東京都某市のミッション系の学校に通っていた私は、そこの寄宿舎に入寮しました。
そこは、私が通う女子校の高校生と、系列の短大生が入る寄宿舎で、その多くは短大生の入寮者でした。
高校生の入寮者の場合は、私のように一時的な帰国に伴い学校に通う生徒や、北海道などの地方から将来的に東京の大学を目指す生徒など、その数はごく僅かで、入れ替わりも激しいものでした。
ミッション系の学園そのものが厳しい規律に基づく運営でしたが、寄宿舎の厳しさは更にそれを上回り、生活の全てを指導するという厳格な考え方は、決して居心地の良いものではありませんでした。
しかし、規則正しく美しく生活する中にも多少の抜け道はあり、特に短大生に比べて娯楽の少ない私たち高校生は、下らない抜け道を見つけては心からそれを楽しんでいました。なにしろ箸が転がっても楽しいお年頃でしたから。
そんな抜け道の一つが、夜中に他の部屋に忍び込んで、友人達とああでもないこうでもないとゲームブックをやり込むことでした。
そのゲームブックは、ある上級生が卒業後に置いていったものらしいのですが、なぜかそんなことが私達にとってはこの上もなく楽しかったのです。
いつも同室の友人Aと一緒に、夜中にこっそり部屋を出て、別の友人の部屋を訪ねるのですが、夜の廊下は暗く、消火器の赤いランプだけが頼りのような道のりでした。
たまに月夜の晩に、階段の踊場の窓から明るい光が差し込むこともあるのですが、そんな夜は月明かりを心強く感じたものでした。
ある夜のことです。
私とAはいつも通り友人たちの部屋を訪ね、みんなでゲームブックで遊んでいました。
時間も大分遅くなってきた頃、これもご禁制のお菓子を全て平らげたところで解散となり、お菓子の袋は私が自室でこっそり処理するという手はずとなりました。
自室への帰り道も注意が必要です。
寮監の先生の見回り後に合わせて部屋を出たものの、もし他の事情で寮監が廊下を歩いていて、そして運悪くそれと鉢合わせてしまう危険もあります。
しかも、今夜はお菓子の袋の残骸を隠し持っている分いつもより多少リスキーです。
もし見つかった場合、反省文やら保護者への連絡やら労作活動などのペナルティが発生するのですが、正直、この移動のスリルすらも本当はちょっと楽しかったのです。
私はAの後に続いて友人達の部屋を出ました。
小走りで移動し、寮監に見つかることもなく無事に自室に到着、ドアノブに手を掛けた時でした。
「あっ!?」
と、突然気がついたようにAは自室の手前にある下り階段の方へ首を伸ばしました。そして部屋のドアを開けようとする私の手を止めて、しっと唇に指を立てました。
どうやら下り階段の踊場に寮監がいたようで、階下へ降りるまで音を立てるなということらしいのです。
Aは息を殺して、再び階段の下を覗き込みます。
すると、(あれ?)というようにこちらを振り向くと、今度は音を立てないようAはゆっくりと自室のドアを開けて中に入りました。
部屋に入り緊張から解放された私は、そのままの勢いでベッドに入り込もうとしましたが、見るとAはドアの内側に立ったまま。と思ったのも束の間で、Aは再びドアを開け出て行ってしまいました。
あっけにとられてポカーンとしている私のところへ、Aはすぐに戻ってきて、今度は私も来るように手招きをします。
何事かと付いて行くと、彼女は壁に隠れながら階段の下の踊場を見るよう指を差しました。
踊場は月明かりで明るく、その真ん中で寮監の先生が窓の外を向いて立っていました。
私は慌てて(戻らなくちゃ)と一瞬思いましたが、すぐにその必要はなさそうだと気が付きました。
寮監はこちらに背を向けたまま、どこかボーっとした様子なのです。
寝ぼけているのか?
少し身体が揺れているようにも見えます。
ゆらゆらする寮監の後ろ姿に何だか気味の悪さを覚え始めた頃、Aは大胆にも階段の上から寮監の真後ろに立ちました。
「え、え…ちょっ…」
さすがに寮監も気付くだろうと思って私はビクッとしたのですが、それでも寮監はこちらに背を向けたまま、月を見ながら揺れ続けているんです。
妙な違和感は感じたものの、私も大胆になり、Aの隣へ行くと、一緒に手をつないで今度は階段を降りてみることに・・・
そして遂に私たちは寮監の真後ろに立ちましたが、寮監は全く振り返る気配もありません。
ゆらり、ゆらりと揺れながら、ただ月を見ていました。
すぐ後ろに私たちがいるのに・・・
その後ろ姿が、なんとなくひんやりしているというか、魂の抜けたような、良くない言い方かもしれませんが、小学生の頃に初めて出席した葬儀で見た、棺の中の亡骸のような冷たさがありました。
その冷たさに気が付いたとたん、私達は怖くなって、Aの手を強く握ったまま足音が出るのも構わず二人で走って部屋へ逃げ帰りました。
その翌朝のことです。
私たちが朝食の準備で食堂へ降りると、そこに短大生の人たちと普通に挨拶を交わしている寮監の姿がありました。
私たちはいつもと変わらぬ寮監の態度が逆に怖くて怖くて、寮監の顔を見ないように朝食を済ませると、そのまま登校してしまいました。
それからしばらくは出来る限り寮監と関わらないよう、必要なことはシスターに話すようにしていました。
そんな風に、あまりに露骨に私たちが寮監を避けるものだから、その態度を心配したある短大生が、その理由を私たちに尋ねてくれたのです。
ですが、自分たちでも訳の分からない体験を人に話すなんて、怖くて最初はためらったのですが、何かの間違いであって欲しいという願いもあって、結局その短大生に正直に全て話してみたんです。
すると、その短大生は不思議そうな顔をしてこう言いました。
「それは絶対にあなたたち二人の見間違いだよ。寮監があの夜、そんなところにいるはずがないんだから。」
私たちはそれがどういう意味かも分からないまま、
「そんなわけない!私たち本当に見たんです!」
と、信じてもらえないことに失望しながらも、更にその短大生に訴えました。すると、
「でもね、その日の前日にね、寮監の家族の方が倒れられて、その夜は寮監は実家へ戻っていたんだよ?」
と短大生は話してくれた後、
「だから、あの夜、寄宿舎にいたのは別の先生だったんだよ」
「その翌朝、朝食の席に寮監が居るのを見て、(随分早く戻ってきたんだな。)と、私たちも不思議に思っていたんだ~」
と、続けて教えてくれたのです。
そんな事情を知らなかった私たちは驚きました。
「あの夜、寮監はいなかった・・・」
でも、あの夜見たのは絶対に寮監だったと私たちには確信がありました。
それで、この短大生の話を聞いた後、Aはある答えに行きついたのです。
「あの夜、私たちが見たものは、『寮監の生き霊』だったのかも…」
目を見開いてそう話すAは、微かに震えているようでした。
確かに、冷たく、ゆらゆらと揺れたまま、絶対に振り向くことがないあの寮監の後ろ姿は、生身の人間のそれではなかったと私も思います。
寮監も、学生の頃からの寄宿舎の出身だと聞いています。
家族が倒れても、その翌々日の早朝には戻って来る程に、あの寄宿舎に強い思入れがあったのでしょうか?
その思入れが生き霊となり、更に早い前日の夜に戻ったのでしょうか?
あの時、もしも無理にでも寮監を振り向かせようとしていたら、一体どうなっていたのでしょうか…
私はその後すぐに転校し、寄宿舎を出ました。
今では寄宿舎は廃止され、留学生の寮になったと聞いています。
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