体験場所:ボリビア ラパス
南米にあるボリビアという国をご存じでしょうか?
日本の3倍以上の面積をもつ内陸国です。
「セロ・リコ(富をもたらす山)」と呼ばれる鉱山に代表されるように、天然資源が豊富で、錫や銀を中心とした鉱業を主要産業として発展してきました。
しかし19世紀後半にチリとの太平洋をめぐる戦争に敗北し、湾岸部を全て失い、チリから多くを搾取される関係となって以来、国力は衰え、今では世界の最貧国の一つにまで凋落してしまいました。
現在では町に、物乞いをする人、お金を恵んで欲しいと擦り寄ってくる人の姿が見られます。
国のほとんどの地域は標高3000mを超え、空は青く、雲に手が届くような美しい景色が広がっておりますが、ひとたび日が沈めば、人通りがほとんどなくなった街には、どことなく危険な雰囲気が漂います。
私は二十代だった頃、南米の一人旅の道すがら、このボリビアに立ち寄りました。
お世辞にも美味しいとは言えない食事に、標高4000mの薄い酸素、町の商店に並ぶガラクタの数々に、私はもはやうんざりしていました。
予定より早かったのですが、一刻も早くこの国を抜け出したいという一心で、その日は朝5時に空港に向かうタクシーに乗り込みました。
「スペイン語を話す日本人なんて乗せたことがないね」
などと言う腕の太い黒人運転手の話に耳を傾け、車窓から、夜明けを待って赤黒く染まった空をぼうっと眺めながら、私は次に訪れるアルゼンチンへ思いを馳せていました。
『ブッブーッ』『ブー』
にわかにクラクションの音が聞こえ始めました。
『ブッブー』『ブーブー』『ブーーー』
クラクションの音は段々とこちらに近付いて来るように聞こえていましたが、実際のところは私が乗るタクシーが音の鳴る方へ向かっていたようです。
すると運転手は、スピードを落としながら窓を開け、そのままゆっくりと走ります。
「車、多いですね」と話しかけると「前を見てごらん」と運転手が言いました。
運転手が指差す方向には、私が今乗っている車とよく似たタクシーが一台、交差点のど真ん中に停車し、それを避けるように車が混み合い、もはや列をなしていませんでした。
「何が起こっているんですか?」
「今からね…」
タクシーの運転手はちらりと私を見て、片手をハンドルから離し、あきれたような表情をしてこう続けました。
「子供が捨てられるよ。」
「え!?」
運転手が言うことが全く理解できない私は、(そんなことあるはずがない…私の聞き間違いだろう…)という思いと、(まさか…そんな事、本当に…)という思いが同時に胸を打ちました。
『ブーーー』『ブッブー』『ブーブー』
渋滞はさらにひどくなり、クラクションの音は絶え間なく辺り一面に鳴り響いていました。
すると突然、
「ギャー!ンギャーー!!」
威嚇する猫にも似た泣き声が耳をつんざきました。
運転手が指差す方向に再び目を向けると、停車したタクシーから小さな生き物がドンと勢いよく道路に突き落とされました。
柔らかそうな、細く薄い髪を耳の上で二つに結び、夜明け前の闇には不釣り合いなショッキングピンクのセーターに足首までのズボンを身にまとったそれは、まぎれもなく人間の子供でした。
その子がけたたましいほどの声を上げて泣くのです。
「ンギャーー!ンワ―――!」
運転手は言いました。
「あの子は何が起こっているか知っているから泣くんだよ。」
幼子を突き落とした腕を車内にしまうと、そのタクシーは瞬く間に走り去り、それと同時に渋滞は嘘のように解消されました。
一呼吸おいて、運転手は言いました。
「あれは、母親だよ。」
私は鼓動を落ち着かせるように、半分だけ息を吸ってから尋ねました。
「どうして誰も助けないのですか?」
「役所の人が見つけるだろう」
「貧しいからと言って、どうして母親は子供を捨てるのですか?」
「貧しいからじゃないよ、子供を好きじゃないんだろう」
「あの子はどうなるのですか?」
「わからない。時が来れば学校に行くようになるさ」
鼓動が急速に高まった私は、その衝撃と感情を受け止めきれず手足がヒクヒクと震えました。
(こんなことが、実際の世界であるなんて……)
呆然と前を見つめる私に、運転手はこう続けました。
「今の時間帯はサツがいねーだろ。ラッキータイムなんだよ。」
これは21世紀、地球の裏側にある国で、本当にあったお話です。
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