体験場所:群馬県T市の某病院
これは僕が大学生の頃に、実際に体験した話です。
当時、僕は大学の友人の紹介を受け、群馬県にある某私立病院で事務当直という珍しいアルバイトをしていました。
僕を含めてアルバイトは四人ほどいました。
仕事の内容は、病院内にある当直室に夜間一人で泊まり込み、急患や救急車からの電話応対や、カルテの準備をする等といったものです。(もちろん当直の医師や看護師は別にいましたが。)
と言ってもほとんど電話が鳴ることもないので、バイト中に寝ていても支障はなく、ただ一日寝ているだけの日も多いような楽なバイトでした。
バイト先の病院は古く、天井から雨漏りしている箇所もありましたが、病院スタッフの噂話では、院長が私腹を肥やすために施設の修繕を怠っているのだと聞きました。
そんな建物だったためか、他のアルバイトからは、夜になると変な音が聞こえると聞くこともありましたし、僕自身も汗の染み込んだ畳張りの当直室で、妙な音を聞いたりもしました。
そんなアルバイトを暫く続けたある日のことです。
その日の夜も当直室で暇を持て余していると、看護師の女性から内線電話がありました。
時刻は夜の11時頃だったと思います。
「山本さん(僕)、今から二階に来れる?」
夜勤で疲れているのか、看護師の声は抑揚がなく冷たく聞こえました。
「はい、大丈夫ですよ」
僕がそう答えると、それ以上何も言わずに看護師はすぐに電話を切りました。
早く来いと言うことなのでしょう。
事務当直のアルバイトが、薬剤室の鍵を管理していたので、その件だろうと僕は思ったんです。
しかし、呼ばれるにしても二階に呼ばれることは滅多にないことだったので、少し不思議にも思いました。
直ぐに僕は薬剤室の鍵を持って、薄暗い照明のスタッフ用階段を通り、二階へと向かいました。
まだ秋口だったのに、階段はずいぶん冷え込んでいるように感じました。
先ほどの内線電話の発信元だった広い病室に入ると、ベッドの上で仰向けのまま固まった、やけに黄色い色をしたおじいさんがいて、その前に看護師は立っていました。
「あ、山本さん。手伝って」
僕の姿を認めると彼女はそう言いました。
はい、と返事をしながら近づいてみると、おじいさんは目を閉じていました。
なにか生気が感じられないその見た目に、僕は立ち止まりました。
精巧につくられた蝋人形のように見えたのです。
「固まっちゃうから、早く!そっちの手を持って」
看護師が怒鳴るようにそう言いました。
僕はびくりとして、おじいさんの横につき、右手を持ちました。
ぬるい、と思いました。人間の温度ではありませんでした。
僕はようやくそこで、おじいさんが死んでいることを理解しました。
病床数の少ない病院なので、今まで亡くなった人を見たことがありませんでした。
それどころか、僕が死んだ人を見たのは、幼稚園生の時の身内の葬式以来であることを思い出しました。
僕は看護師と協力し、なんとかおじいさんの手を組み合わせようとしました。
ですが遺体は死後硬直で硬くなっており、力をいれないと動きません。
看護師は折れてしまうのではないかと思うほど強い力をいれ、おじいさんの手を押しました。
「早くして!」
「はい」
僕も全力でおじいさんの手を押しました。
そうして、おじいさんの両手を組み合わせてしまい、担架に乗せました。
死んでいると体重が重力任せになるためなのか、遺体は不気味なほど重く感じました。
その後、僕は看護師に指示されるままに遺体安置所の清掃を行い、三十分ほどして到着した遺族を控室に案内しました。
控室は僕の泊まる当直室の隣だったので、遺族のすすり泣く声がしばらく聞こえていました。
翌日、その日も僕は事務当直に入りました。
病院に到着し、当直室に入ってからも、昨日のことのせいで落ち着かない気分でした。
しかし、当直室のテレビでバラエティ番組を見ている内に、そんなことも忘れ、いつの間にか僕は笑っていました。
その日も特に何事もなく、午後十時ごろには布団を敷いて僕は眠りに就きました。
どのくらい経った頃でしょうか、電話が鳴る音を聞いて僕はハッと目を覚ましましたんです。
慌てて受話器を取ると、電話の向こうから、ずいぶん歳をとったおじいさんのような、しわがれた声が聞こえてきます。
僕はいつも通り氏名と会員番号、それから症状を聞いて、保留ボタンを押した後で、医師に受け入れ可能かどうかの確認の電話をしました。
医師は、僕が話しきる前に、
「僕の専門じゃないから無理だね」
そう言って、あっさりと拒否しました。
再び僕はおじいさんに電話を繋げ、
「医師が対応中のため、受け入れできません」
そう伝えたんです。(断る際の文言はそう決められていました。)
おじいさんは苦しそうに少し呻くと、
「わかったよ」
と言って乱暴に電話を切りました。
(それにしても今のおじいさんの会員番号、随分古かったな…)
そんなことを考えながら、僕は再び眠りに就いたんです。
翌朝、僕は何となく昨夜のおじいさんのことが気になり、スタッフが出社してくる前に、病院のパソコンでその会員番号を検索しました。
その結果を見て、鳥肌が立ちました。
パソコンの画面には「死亡」の文字が表示されていたんです。
しかもそれは、一昨日の晩に亡くなったおじいさんのものだったのです。
しばらく画面を眺めながら、僕は呆然としていました。
あのおじいさんは一体何のために電話をしてきたのでしょうか?
遺体に触れた僕が、翌日にはテレビを見て笑っていたことに腹を立てたのでしょうか?
もしも医師が受け入れ可能の許可を出していたら、再びおじいさんは病院に来てしまったのでしょうか?
死者からの電話を受けた僕は、得も言われぬ気持ちのままパソコンを閉じ、忘れようと思いながら既に数年が経ちましたが、今もあの時のしわがれたおじいさんの声は、まざまざと思い出されます。
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