体験場所:福井県S市 某会社の社員寮
この話は、私の父が社会人なり立ての新入社員の頃に体験した話です。
手先が器用だった父は、福井県S市にある眼鏡を製造する会社に職人としての採用が決まりました。
当時、父は京都の実家に住んでいて、福井県の会社まで通うのは難しかったので、職場の近くにある社員寮に入居させてもらうことしたそうです。
社員寮とはいえ初めての一人暮らしにウキウキしていた父でしたが、いざ寮に到着すると、それは本当に人が住んで大丈夫なのか?と疑いたくなるほどボロボロの建物だったそうです。
引っ越しの手伝いに来ていた父の母(私の祖母)も、「こんなところに住まわず、普通のアパートを借りなさいよ」と言ってしまうくらいの有様だったそうで、そんなところに息子が住むのかと思うと知らず知らずに涙が流れたよと、後に祖母が言っていました。
もちろんそんなボロアパートに住む社員はほとんどいなかったそうで、父の他には、父の上司に当たる人が一人住んでいるだけでした。
ただ、一階の一番奥にあった父の部屋は広く一人暮らしには十分なくらいで、築年数やボロさが多少気になること以外、住む事には全く問題はなく、父は新生活に心躍らせていたと言います。
そんな風にワクワクして始まった一人暮らしでしたが、結局仕事が始まると、毎日忙しくて働き詰めの父にとって、家は夜遅くに帰って寝るだけの場所となり、たまの休日も近くに友人もいないため、結局家で寝て過ごしていたのだとか。
思っていた一人暮らしとは何か違うなと、そんな風に感じ始めたいたそうです。
その日も仕事から帰った父は、余りの疲れに食事も摂らずにソファーに倒れ込むようにして眠ってしまったそうです。
それからしばらくして、体のダルさで目を覚ました父が、テレビでも付けようかと体を起こそうとした時でした。
「ズッスー、ズッ、スースー」と、背後から、着物か何か、衣服を引き摺るような音が聞こえたそうです。
直ぐに後ろを振り返りましたが、誰もいませんし、何もありません。
気のせいかと自分を納得させながらも、何かまんじりともしないまま、その日は朝まで起きて過ごしたそうです。
その日からでした。
家の中で着物を引き摺るような音が頻繁に聞こえるようになったのは。
キッチンに立っていても「ズッ、スーー」と背後を通り過ぎる音がしたり、トイレやお風呂に入っていても、ドアの向こうを「ズッ、ズッ、スーー」と、何かが横切るような気配がするそうなのです。
私だったらとっくに恐怖の限界を向かえていたと思うのですが、父は「どうせ疲れて耳鳴りでもしているんだろう」と、あまり気に留めることもなかったそうです。
そんなことが連日続いていたある夜、その日も父は、いつものように疲れてソファーで眠ってしまったそうなのですが、しばらくすると、「ズッ、ズッ、スーー」と、いつものように床を摺る着物の音が聞こえて目を覚ましたそうです。
「まただ…」と溜息をついた父でしたが、どうもその日はいつもと様子が違いました。
辺りから、老人施設のような独特の匂いが部屋中に漂い、部屋のどこかから「ゼーゼー」と、疲れた老人が出すような息遣いが聞こえてきたのです。
さすがにブルッと身を震わせた父は、その時ばかりは怖くなり、近くにあったブランケットを頭から被ろうと手を伸ばそうとしたのですが、体が硬直して動く事ができず、更には目を閉じることすら出来ないことに気付いたそうです。
父は震えたまま、目の焦点だけゆっくりと横にスライドしていくと、ソファーの横に、しわくちゃの老爺が立っているのが見えたそうです。
前がハダけた、ボロボロの着物を身にまとった老爺が動く度に、その裾が「ズッ、スーー」と床の上を摺って、ゆっくりと父に近付いてきます。
ほとんど髪の毛がない老爺の頭部の下には、見たこともないほど皺皺の顔があって、その表情には苦痛が浮かんでいたと父は言います。
皮膚が垂れ下がり落ち窪んだその目が、執着するかのようにジッと父に向けられています。
そのまま老爺はゆっくりと、助けを請うかのように父に近付いてきたかと思うと、がばっと父に覆い被さって、まるでキスをするかのような距離までヌーッと顔が迫ってきました。
その強烈な容姿と匂いに限界を向かえた父は、恐怖のあまりいつの間にか絞り出すような声で南無阿弥陀仏と唱えていました。
何度も何度も念仏を唱え続けるのですが、そんな事は何の効果も無いようで、老爺の顔はゆっくりと父に近付いてきます。
どのくらいの時間そうしていたのか、恐らく僅かな時間だったのでしょうが、父には1時間にも感じる程だったそうです。
そのうち父は気を失っていたそうで、気が付くと朝になっていたらしく、老爺の姿もなくなっていたそうです。
フッと我に返った父は、もうこんなところに住んでいられないと直ぐに引っ越し、その社員寮を後にしたそうなのです。
後に会社で、あの社員寮に住んでいたもう1人、父の上司に当たる人に、父の体験したことを聞いてもらったそうなのですが、「あんなにボロボロな寮で出ないわけないでしょ」と、笑っていたそうです。
もしかしたら、上司も同じような体験をしているのか、それとも何か理由を知っていたのか、何にせよ父は係り合いたくなくて、それ以上何も聞かなかったそうです。
その後すぐに母と出会い、転職を機に福井県を離れたそうです。
ですが何十年経った今でも、あの老爺の顔が頭にこびりついて離れないと言っては、父は何度も私にこの話を聞かせるのです。
きっと今ではその社員寮も解体され、新しい建物が立っているのでしょうが、その老爺が無事に成仏できたのかどうか、私は少し気になっています。
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