
体験場所:奈良県 生駒山付近
激しい雨の降る夜だった。祖母の危篤の知らせを受けた私は、奈良から実家のある大阪に向かうタクシーの中にいた。生駒山を越える最中、車の外では雷鳴がとどろき、バケツをひっくり返したような雨が降っていた。窓の外を見ると深い夜の闇が広がっていた。
「ああ、あれもこんな雨の夜だったですよ、今と同じで、生駒山をちょうど越えようとしてた」
それまで、まったく静かだったドライバーが突然話し出した。
「ちょうど、このあたりで、女の人が手を挙げていて。雨の、こんな山の中、どうやってここまで歩いてきたんだろうと不思議だったですわ。なんとなく、どこかで見たことのある女の人だなあとふと思ったんですが、そのときは何とも思わなんで車に乗せたんですわ」
突然、激しい雷音がした。目の前で空が光り、真っ二つに割れた。
運転手は構わず話を続けている。
「その女の人は、山の下まで連れていってください、と言ったので。わしがまっすぐ進もうとすると、そっちには行かないでください、左側の道を行ってください、とかすれるような声で言ったあとは、こっちから話しかけてもまったく返ってこないんです。変な人だなあと、信号で止まっている間、記録を付けるふりして、車内のライトを少しだけ点けてバックミラーをちらちら見ると、こんなすごい雨の中にいたというのに、傘も持っていないようだし、なのに濡れてる気配もなかったんですわ」
「何歳くらいの人だったんですか?」
話に引き込まれ、私は思わず聞いていた。
「20代だろうね、いっても25くらいの若い女性だったですよ。ああ、お客さん、前が見えないくらい激しい雨ですわ。ちょっとスピード落としますよって、すみませんな。お急ぎのところ」
「いえ・・・」
フロントガラスではワイパーがフル稼働しているけれど、焼け石に水だ。
「その女の人に、よく雨が降りますなあ、と言っても、この雨の日に出かけるなんて大変ですなあ、と言っても、なんにも返事がかえってこない。いい加減わしも気味が悪くなってきて、このあたりで降りられますか?と、車を止めて後ろを振り返ったんですわ。そうしたら」
大地が揺れるような轟音が鳴り響いた。すぐ近くに落雷の気配がした。
「いなかったんですよ、その女の人」
「まあ」
驚嘆の声を上げてみたが、使い古されたタクシー怪談だ。
「車をその場に止めて、後部座席を確認したら、女が座っていた場所は少し生暖かくて、確かについさっきまで人のいた気配がありましたよ。気味が悪くなって、わしは急いで引き返すために車をUターンさせたんですわ」
遠くで消防の音がする。やはりどこかに雷が落ちたのだろう。
「戻る途中で、この夜中だというのに人だかりができている場所がありましてな。はてどうしたのかと思って聞いてみると、その道の向こうで土砂崩れが起きて、車が流されたという」
徐々に、雨の降りが収まってきた。
「その道というのが、わしが行こうとして、女の人が行かないでと言った道だったんですよ。そう、わしは命拾いしたというわけです。その女の人のおかげで」
運転手がワイパーの動きをゆるめた。
「それから少ししてね、母が亡くなって、写真を整理していた時ですわ。あの時タクシーに乗せた女性とよく似た女の人が母のアルバムに出てきましてね。それが19で亡くなった母の前婚の子で、わしにとったら父違いの姉だったんすよ」
再び雨が激しくなり、真っ暗な車の中に雷の光が差した。一瞬座席の隣に視線を走らせた私はあっと声をあげた。確かに、女の姿が一瞬見えたのだ。
「お姉さんって、髪が長くて、着物を着ておられたんじゃ?」
「ああ、そうだったなあ。でもお客さん、なんでそのことを?」
女の消えた座席に手を当てると、生暖かいぬくもりがそこに残っていた。
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