体験場所:岡山県O市の某病院
当時、私は岡山県O市のとある病院で事務員として働いていました。
その職場が本当に最悪で、その頃の私は心身共に疲れ果てていたと思います。
最悪というのも、人間関係のトラブルがとても多い職場でした。
毎日のように年上の職員からきつく当たられたり、酷い言葉を投げかけられたりして、仕事も大変な上に、更に日々いびりの様なものに晒される内に、今思うと私は精神的に相当弱っていたように思います。
あの体験をしたのは、そんな心身共に疲れ果てている時期のことでした。
その日の私は、朝からなんだかすごく落ち込んでいました。
何か特別大きなトラブルがあったわけでもなく、苦手な職員に多少の嫌味を言われるのはいつものことで、特に普段と変わらない朝でした。
それなのに、なぜか私はすごくナーバスになっていて、自分でも(どうしたんだろう?)と感じていたんです。
なんだか仕事にも集中出来ず小さな失敗を繰り返してしまい、唯一仲良くしてくれていた職員の方にも「どうかした?」と、心配されてしまう程でした。
ただ、理由もない落ち込みはどうすることも出来ず、そのままお昼休みを迎え、私は気分転換に外の自動販売機に飲み物を買いに行くことにしたんです。
外に出ると風がとても冷たく、私は何か温かい飲み物にしようと考え自販機に向かいました。
すると、その途中にある花壇で、私は奇妙な光景を目にしたのです。
白髪が交じる髪の長いお婆さんが、寝間着姿のまま、花壇の土を一心不乱に掘っていたのです。
それも、スコップなどの道具を使うわけではなく、直に地中に手を突っ込んで土をかき出していました。
花壇の上に這いつくばって、無我夢中で土を掘り返すお婆さんの姿は、正直、常軌を逸するものがありました。
まともとは思えないその光景に、私は一度怯んで後ずさりしてしまいました。
普段のプライベートの私だったら、正直、怖いし関わりたくないと、恐らく無視していたことでしょう。
ですが、職場でのことですし、もしかしたら病棟の患者さんが脱走でもしたのであれば大変だと思い、私は勇気を出してそのお婆さんに声を掛けたのです。
「どうか…しましたか?」
ですが、お婆さんは私の声に全く反応しませんでした。
まるで声が聞こえていないかのように穴掘りに没頭しています。
「こんにちは!どうかされましたか?」」
声のトーンを上げ、数回、同じように話し掛けてみましたが、結果は同じで、お婆さんはうんともすんとも言うことなく、ただひたすら土を掘り返しているだけでした。
あまりに不愛想なその反応に、(もしかしたら耳でも悪いのかな?)と思って、もう少しだけお婆さんに近付いてみようとした時でした。
「紗枝ちゃん(私)」
と、背後から、よく見知ったおばさんに声を掛けられたんです。
そのおばさんは山内さんと言って、よく私に話しかけて下さる気さくな方で、何か持病があるらしく、長く入院されている患者さんの一人でした。
私は山内さんに軽く会釈をして、再び花壇に目を向けました。
お婆さんは未だ一心不乱に穴を掘り続けています。
私が再びお婆さんに近付こうとすると、
「いいのよ紗枝ちゃん。忙しいでしょう?私が連れていくから。」
そう声を掛けられ振り返ると、山内さんはにこにこ笑っていました。
すると、山内さんはスタスタと穴を掘っているお婆さんの元に近付くと、スッと肩を貸すように立ち上げ、そのままお婆さんを支えて病棟の方へと去って行きました。
私は二人の後ろ姿を見送りながら、なんだかふわふわした感覚になり、まるで白昼夢でも見ているかのような気持ちでしばらくその場に立ち尽くしていました。
フッと我に返ると、私は足早に自動販売機に向かい目当てのコーヒーを購入し、職場に戻りました。
職場に戻ると、先程の穴を掘っていたお婆さんのことがあまりに印象的で、誰かにそのことを話したいと思いました。
ですが、職場には私が気軽に話せるような同僚はいません。それに、後処理を患者さんに任せて帰ってきてしまったなんて事が知れたら大目玉を食らうかもしれないと怖くなり、誰にも言いだすことが出来ませんでした。
その翌日のことでした。
山内さんが今朝、亡くなったと聞いたのは。
昨日の元気だった山内さんの様子を思い起こすと、私はそれを信じることが出来ませんでした。
あまりに突然の訃報に動揺した私は、
「私、昨日、外で会いました…」
と、思わず大勢の職員の前で昨日のことを言いかけてしまいました。
すると、その中の誰かが、
「昨日までは元気だったんだけどね…」
と、残念そうな様子で教えてくれました。
今朝、本当に唐突に容体が急変して、そのままお亡くなりになったらしいのです。
(あんなに元気だったのに、今朝…突然…)
そう思った瞬間、私は昨日のことを思い出し、スッと背筋に冷たい何かが走るのを感じました。
(あの、穴を掘っていたお婆さん…あの人が山内さんを…連れて行ったんだ…)
瞬間的にそう直感しました。
(あの穴は、これから連れて行く誰かの、墓だったんだ…)
そう思った瞬間、つま先から頭の天辺まで悪寒が駆け巡り、全身の肌が粟立つのを感じました。
(もし、私がお婆さんを病棟に送っていたら…)
あのタイミングで山内さんが現われていなかったら、恐らく私があのお婆さんを病棟まで送って行くとになったでしょう。
そしたら、今頃、私はどうなっていたのか…
そう思うと、私は震えが止まらなくなりました。
それから私は、あの白髪のお婆さんを探し出すために病棟内を見て回ろうとしたのですが、そこで気が付いたことがあったんです。
私は、あのお婆さんの顔を全く覚えていませんでした。
顔を覚えていないのか、顔を見ていないのか、記憶にあるのは、あのお婆さんが一心不乱に穴を掘る後ろ姿だけ。
結局、そのヒントだけでは、病棟内にそれらしい人すら見付けることが出来ませんでした。
あの穴を掘っていたお婆さんは一体誰だったのでしょうか…
本当に病院の患者だったのか…
あるいはもしかしたら、死神と呼ばれるような存在だったのか…
正直、全く分かりません。
結局、あの日の出来事は誰にも言えないままでした。
あのお婆さんのことを話すだけで、再び私の目の前に現われてしまいそうで怖かったから…
「私が連れていくから。」
と、にこにこ笑っていた山内さんは、何も知らなかったのでしょうか?
それとも、分かっていて私を助けてくれたのでしょうか?
しばらくして、私はあの体験がトラウマとなり、その職場を辞める決断をしましたが、もしかしたら、あのお婆さんは今も、あの病院のどこかで穴を掘り、誰かが来るのを待っているのかもしれません。
私にとっては二度と遭遇したくない相手ですが、今になると、同時にあの職場を辞める切欠を与えてくれた恩人とも言えるかもしれない、と、少し複雑な気持ちです。
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