体験場所:鹿児島県S郡 某小学校校舎
それは今から30年ほど前、私がまだ小学生だった時の話です。
鹿児島県S郡の山の中にポツンと佇む私の母校は、まるで使い古された軍の要塞のような雰囲気でした。
年季を感じさせる外壁には、あちこちにヒビが入り、その隙間からはツタが伸びていて今にも崩れ落ちそうで、小学生の私から見ても危険としか思えない建物でした。
木造2階建てで、山々に囲まれているため日中でも薄暗く、廊下を歩くとギシギシ音を立てます。肝試しをするにはおあつらえ向きな校舎ですが、当時の私たちには不満でしかありませんでした。
もちろん何度も改装工事をしていましたよ。
ですが、今ほど建設法に厳しくない時代なので、全体的な改装と言うよりそれは、部分的な修繕工事ばかりで、私たちは新しく生まれ変わる校舎を想像し、叶うことのない期待を抱きながら、そんな工事の様子を2階の窓から眺めていました。
頭の中では大規模な工事がなされ、綺麗で最先端のシステムが導入されている校舎を思い描いていたんですけどね。残念なことに、だいたいが一日工事しただけで終わるんですよ。
校舎は二棟に分かれていました。
一棟は普段ホームルームをしたり給食を食べたり、5教科を勉強する教室がある『南棟』で、もう一棟は、音楽や図画工作、家庭科などの実習室がある『北棟』。
南棟と北棟は向かい合わせに建っており、その間を左右2本の渡り廊下が繋いでいます。
正門は南棟側にあり、登下校もそちらからしていました。
学校では先生からいつも言われていた注意がありました。
「北棟の先、つまり北棟より北には行かないように」
なぜかは分かりません。
ただ、そのルールは暗黙の了解として生徒達の間で定着していました。
それでもやっぱり見に行く子はいるわけで、勝手に北棟の先へ行ってこっぴどく怒られている生徒を何度も目撃しました。
それでも気になるものは気になるので…
ある時、私は友達2人と北棟の先へ行く計画を立て、実行するタイミングを見計らっていました。
ある日、私たちの小学校に以前赴任していた教頭先生がお亡くなりになり、葬儀に参列するため先生方が数人欠席したことがありました。
その時4年生だった私たちの担任も欠席しており、教頭先生の訃報は悲しいことですが、先生の数が少ない今日がチャンスとみて、その日、北棟の先へ行く計画を実行したのです。
細長い渡り廊下を静かに歩いて北棟へ入ったら、私たち3人は一気に勢いのまま奥にある出口から真っすぐ外に抜けたのです。
意を決し、胸を弾ませ踏み込んだ未開の地。
そこは…
…何てことはない。
ただ手入れされていない草むらが広がっているだけでした。
手前に焼却炉が1つ、その奥に教員住宅が3棟建っているだけの原っぱです。
教員住宅には、校長先生、教頭先生、事務の先生が住んでいるそうなのですが、その家屋も校舎に似た古びた造りのものでした。
私たちはひどくガッカリしましたよ。
キラキラした新世界に踏み込んだつもりだった冒険は、予想外に早く、あっけなく幕を閉じたのですから。
その日以来、北棟の先のことは興味の対象外となり、いつの間にか忘れたまま私たちは6年生になりました。
本来なら修学旅行や中学校への進学準備に意気揚々とする年ですが、その年は何故か不幸の多い暗い年になりました。
立て続けに現役の校長先生や事務の先生、他にも新しく赴任してこられた先生が亡くなられ、その一年だけで3人の先生方が亡くなられました。
校長先生は首に出来た悪性の腫瘍による病死、事務の先生は仕事で悩み首を吊って自殺、新しく来られた先生はお酒に酔って高いところから転落、首の骨を折って亡くなりました。
驚いたのは、皆、首にまつわる死に方で、しかも3人が3とも、あの北棟の先にあった教員住宅に住んでいる先生方だったんですよ。
そう言えば、私たちが北棟の先に忍び込んだあの日、4年生の時に亡くなられた教頭先生も教員住宅に住んでいました。
それに気が付いた時、北棟の先で見たボロボロの教員住宅の光景が鮮明に脳裏に浮かび上がり、それを目の当たりにした私たち3人は、得も言えぬ恐怖に震え上がりました。
それから数日間、教員住宅には黄色い進入禁止のテープが張られ、担任の先生からは今まで以上に近づかないようにと、念を押して厳重注意がありました。
それから先、私たちは北棟の先で見たものを話題にすることはありませんでした。
時は流れ、数年後。
みんな成人して新生活や仕事に追われるようになったばかりの頃、小学校の同窓会が行われました。
同窓会には小学校でお世話になった先生も来られていたので、当時の話で大いに盛り上がりました。
お酒が進むに連れ、誰が言いだしたのか、いつの間にか話題は北棟の先のことになっていました。
すると、今まで笑顔だった先生も顔をしかめ、渋々とある話をしてくれました。
あの小学校の校舎が建つ前、そこには大きな広場があったこと。
戦時中にはその広場が軍隊の練習場になっていたこと。
そしてその軍隊に所属していたほとんどの方が、戦争で命を落としたこと。
先生の話は更に続きました。
戦火での辛い日々の中で、北棟があった場所には唯一軍の方々が休養したり仲間と談笑する為のテントが張られていたそうで、軍の方々がその場所を死守せんとするためなのか、北棟を改装工事しようとすると、必ず作業員に災いが起こり、工事が全く進まないのだとの言うことでした。
いつもすぐに工事が終わってしまう理由はそう言うことだったのだと…先生方の間では度々話題になっていたとの事でした。
そして、教員住宅が建てられていた場所は、かつて軍の方々が毎日必ず行進を行っていた場所だったと、先生は少し小さな声になって続けます。
「成仏しきれなかった軍の方々が、ちょうど先生方の首の上を通って行進していたのかもしれないな・・・」
そう言って悲しそうにグラスを傾ける先生。
その話を聞いて、あの日、北棟の先に忍び込んだ私たち3人は青い顔を見合わせ、互いに頷いて納得しました。一気に酔いも覚めましたね。
今では、小学校の校舎も新築に建て直され、教員住宅も別の場所に新たに造られているそうです。
そういえば、同窓会で最後に先生が、
「北棟の下には〇〇が埋められていたんだ。」
と話をしていたのですが、よく聞こえませんでした。
一体何が埋められていたのか?
今も気になったままですが、あまり詮索しない方がいいと思っています。
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