体験場所:長崎県長崎市
私が長崎県長崎市で大学生をしていた時の話です。
まだ日が短い春先の夕方、私は買い物を終えてアパートへ帰るところでした。
ふと見ると、私の住んでいるアパートの一つ手前のマンションの物陰に、2人の男女がいました。
2人はコソコソと何か話していて、その視線は私の住むアパートの方を向いています。
なんか変な感じの二人だなとは思ったのですが、気にせずにその前を歩いて通り過ぎようとすると、
「あの、すみません」
男性の方に声を掛けられ、その直後にこう言われたんです。
「携帯貸してください」
「え?」
その突然の要求に私は戸惑いながらも、男性の顔を見ると、その表情はどこか不自然な様子でニコニコ笑っています。
女性はその後ろで、とても怪訝そうな顔でこちらを窺っています。
見たところ2人とも私と同じ大学生くらいのように見えます。
(携帯貸してって、自分のがあるでしょ…)
と、私は不審に思いながら、
「…何かあったんですか?」
と尋ねました。
すると、
「そこで事件みたいなのが起きてるんです」
男性はそう言って前方を、私の住むアパートを指差したんです…
「えっ!?」
私は固まってしまいました。
(事件ってなんの?)
(私のアパートの前で?)
私の態度のせいなのか、女性の方が更に険しい表情になったのが見えます。
「すみません、携帯持ってないんです」
その日、私は本当に携帯を充電器につないだままで家に置き忘れていたんです。
正直、持っていても貸したかどうかは分かりませんが、私はそれだけを言い残し、怖くてその場からアパートとは反対の方向に走り去りました。
(なんの事件?傷害?まさか殺人……。)
(なんであの2人は平然とあの場で事件を傍観していたんだろう…)
(それに女性は怪訝な顔をしていたのに、なぜ男性の方はニコニコ笑っていたの?)
(なんだか、あの笑い方、凄く不気味だった……。)
何が起こっているの全く分かず、私は混乱しました。
やがて、さすがに見て見ぬ振りはまずいと思い、近くの公衆電話から通報しようと考えました。
受話器を取り、10円玉を入れたその時、
「急いで!!早く通報して!!」
そう叫びながら、さっきの女性が男性の腕を引いて、物凄い勢いで走っていくのが見えました。
あんなに切羽詰まった人の表情は後にも先にも見たことがありません。
なのに腕を引かれている男性はやっぱりニヤニヤ笑っています。
(私のアパートの前で一体何が起こっているの…)
私は再び怖くなり、受話器を置いて、走って近くにある大学の図書館へ逃げ込みました。
一体アパートの前で何があったと言うのか、携帯もないから誰かに聞くことも出ません。
まんじりともしないまま、3時間くらいずっと図書館のベンチに座って呆然としていました。
(そろそろあの2人が通報しているだろうか…)
(これだけ経てばもう警察も来てるよね…)
そう思った私は、意を決してアパートに戻ってみることにしたんです。
(そう言えば、同じアパートに住んでいる同級生はみんな大丈夫だったかな…)
そんな事を考えながら、私は恐る恐るアパートの前まで来て驚きました。
「・・・え?」
そこにあったのは、いつもと変わらないアパートでした。
警察も野次馬も、犯罪の痕跡も何もありません。
いつもの夜と変わらない、静かなアパートの風景がそこにあるだけなんです。
「…な、じゃあ、あの二人は…何だったの?」
私は訳が分からなくなりながらも、(良かった。からかわれただけなのかな…)と安心し、自分の部屋に入るなりドッと疲れが出て、そのまま眠ってしまいました。
翌日、ニュースを見てみましたが、私のアパートで事件が起きたなどという報道はありませんでした。
アパートの友人にも、「昨日、怪しい人見なかった?」と聞いても、「え?別に見てないけど…」と言います。
(あの二人の男女はなんだったのか…)
(男性の方は明らかに怪しく感じたけど…)
そう思った瞬間、私はハッとしました。
「携帯貸してください」
まさか、あの男性こそが不審者だったんじゃ…
事件など起きてもいないのに「通報するから携帯を貸せ」と言い、携帯を渡したら持ち去って悪用するということか…?
(大学生にもなって、そんな詐欺に引っかかりそうになるなんて…)
私は自分で自分に呆れて、溜息をつきました。
(あれ?でも…)
じゃあ、あれは何だったのだろう。
男性の腕を引いて必死の形相で走っていく女性。
彼女は確かに切羽詰まっているように見えました。
悪戯で見せる表情にしては、尋常ではない恐怖の色が漂っていました。
あの表情を思い出すと、私は『事件』が作り話とは思えなくなりました。
(じゃあ、何だったの…)
と、考えてみても分かりませんし、もう過ぎてしまったこと。
今更、本当の事を知ってもどうしようもありません。
そう思って、私はこの記憶に蓋をしたんです。
それから3ヶ月ほど経った頃でした。
その年は全国の有名大学で、立て続けに集団暴行事件が起きた年でした。
当時、同じ大学生ということもあり、私の同級生たちの間でも連日話題になり、その日も「怖い怖い」と言って大騒ぎしていました。
すると、一人の友人が意味深な顔をしてこう言いました、
「…そういえば、この近くでも見かけた人いるらしいよ。大学生くらいの男が、女の人を襲ってるの。」
ドヨっとした空気が立ち込め、みんな固唾を飲んでその子の話に耳を傾けました。
「しかも、その暴行があった場所っていうのが…」
そう言って再び口を開いた彼女の言葉を聞いて、私は鳥肌が立ちました。
暴行が目撃された場所と言うのは、私のアパートの前だったのだそうです。
咄嗟にあの男のニヤついた顔を思い出し私はゾッとしました。
あの日見た、逼迫した表情の女性と、ニヤニヤと気味悪く笑っていた男性。
(もしかして、あの二人が…)
だとしたらなぜ女性は逃げずに、むしろ男性の手を引いて走り去ったのか…
それも、あんな鬼気迫る表情で…
「急いで!!早く通報して!!」
そんな言葉を残し、ニヤつく男の腕を引いて走り去った彼女が、その先でどうなったのか、今は知りようもありませんが…
確かに起きていたのに、報道されない『事件』。
そんな事件が世の中には沢山あるんだろうと、今でもあの出来事を思う度、私は恐怖と共にこの社会の暗い現実を感じます。
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