体験場所:秋田県 K村
これは私が大学生の頃、アルバイト先の先輩から聞いた話です。
アルバイト先だったそのコンビニは慢性的な人手不足に追われていて、希望すれば女の私でも簡単に深夜シフトで勤務することが可能でした。
その際によく一緒に働いていたのが4つ年上のフリーターの男性、吉野さんでした。
私が働いていたような繁華街にあるコンビニでは、近隣にある夜のお店の開店前と閉店時の時間だけ一時的に客足は増えるのですが、それ以外の時間は比較的暇を持て余すことも多く、私たちは無人の店内でよく取り留めの無い話をしていました。
吉野さんがご自身の昔話を聞かせてくれたのも、そんな客足の絶ったコンビニでのある夜でした。
吉野さんの出身は東北の秋田県なのですが、そこは県内でも比較的中心街に当たる場所で、不便を感じることも無かったそうです。
海に面しているからか冬でもそこまで雪深くもなく、
「積もったとしても、かまくらは作れない程度だったよ。」
と、話していたのを覚えています。
そんな吉野さんが幼少期に一度だけ、壁のように積もる雪を目にしたのは、母親の実家に連れていかれた時だったそうです。
彼の母親の出身は県内の人間もめったに訪れないほど山深い土地で、世間からは半ば孤立したような集落だったそうで、車がなんとか一台通れるような雪深い田舎道を進み、母親の実家へと向かったのだそうです。
当時、幼稚園の年中だった吉野さんも、よりにもよってこんな真冬の時期に、雪の壁が切り立つこんな山道を走る事に不安と恐怖を覚えたそうです。
車には母親と吉野さんの他に、その年小学校に上がったばかりの兄が乗っていました。
父親は出張で来ることが出来なかったそうですが、それも今思えば疑問だったと彼は首を傾げます。
吉野さんの記憶では後にも先にも母親の実家を訪れたのはその一回きり。
どうせなら父親の身体も空いている時に家族みんなで顔を見せに行けば良かったのに、と、私も話を聞きながら不思議に思っていました。
険しい雪道を抜け何とか無事に集落に辿り着くと、吉野さんの祖父母をはじめ、村中の年寄りが集まって家族を歓迎してくれたそうです。
吉野さんは知らない大人に囲まれる緊張もあり、黙って頭を撫でられていたのですが、吉野さんの兄は違いました。
奇声を上げた兄は祖父母の古い家の中を駆け回り、置物や衣類、仏壇まで蹴り飛ばしたと言います。
「兄はすこし、頭が弱くてね」
「そうだったんですか」
あまり突っ込むのは礼儀に欠けると思い、私はそれ以上、彼の兄について詳しくは聞きませんでしたが、どうやら吉野さんはその兄を、あまり良くは思っていないようでした。
確かに話に聞く限り、
(身内にいたら、苦労しそうだな…)
と、失礼ながら私も納得していました。
到着したその夜は、たっぷり出されたご馳走を食べ、温かいお風呂に入り、吉野さんは母親と兄と一緒に客間に敷かれた布団で眠ったそうです。
慣れない布団に多少の心地悪さを感じながらも、その日は移動の疲れもあって、幼かった吉野さんはぐっすりと眠りに落ちました。
それなのに、夜中に何となく目が覚めてしまったそうなんです…
薄っすらと豆電球だけが灯る知らない家の夜、不安と心細い気持ちで横を見ると、一緒に眠っていたはずの母親と兄の姿がありません。
吉野さんは半ば泣きながら廊下に出て、母親を求め家の中を彷徨いまいました。
すると仏壇の置いてある部屋からヒソヒソと話声が聞こえてきたんだそうです。
吉野さんは恐る恐るその部屋の戸を少しばかり開けて、中を覗き込みました。
中にいたのは、昼間吉野さんたちを歓迎してくれた祖父母や村の年寄り連中。
そして母親と兄の姿もありました。
祖父母たちと母親は円になるように座って何やら難しい顔をしています。
その円の中心にいたのが、目の焦点を失い、涎を垂らしながら虚空を見上げる兄の姿でした。
その不穏な光景に吉野さんは息を飲み、その場に立ち竦んだそうです。
「……今年は……順番……仕方ない……」
「兄なら……えても……わからないから……」
ぼそぼそとしゃがれた老人の話し声が聞こえるのですが、何を言っているかまでは鮮明に聞き取れません。
そんな中で突然ハッキリと聞こえてきた声は、母親のものでした。
「仕方ないですね。この子にしましょう。」
そのどことなく弾むような母親の声と、怪しげな席で喜んで兄を差し出すようなその言動に、何だか得体の知れぬ恐怖を感じ、吉野さんは慌てて部屋に戻り、頭から布団を被りました。
(みんなで集まって何を話してたんだろう?)
(お兄ちゃんは一体どうなるんだろう?)
先ほど見た不気味な光景に漠然とした不安を抱えながらも、布団の中で目を閉じている内に、吉野さんはいつの間にか再び寝入っていたそうです…
翌日の朝から、兄の姿は消えました。
吉野さんが眠ってる内に片付けられたのか、兄が眠っていたはずの布団は既に無く、朝食にも兄の姿はありませんし、兄の分の配膳もされていません。
玄関を見ると兄の靴もありませんでした。
その朝、兄は忽然とどこかに姿を消してしまったのです。
それなのに、吉野さんの兄のことを口にする人は誰もいませんでした。
まるで初めから…兄などいなかったかのように。
その後も母や祖父母、それに村の人達の変わらない態度に違和感を感じながら、吉野さんは母親に連れられるまま、その山奥の集落を後にしたそうです。
それからしばらくして、家に戻っても何事もなかったかのように過ぎ去る日常に、さすがに引っ掛かりを感じた吉野さんは、一度だけ母親に兄の行方を尋ねました。
すると、母親は明るくこう言ったそうです。
「探さなくていいからw」
「笑いながらそう言った母親の目がさ、全く笑ってなかったんだよね…」
それが今でも忘れられないと、寂しげに笑う吉野さん。
そう話す彼の顔を、私も忘れることが出来ません。
「……それって、本当に探さなくていいんでしょうか?」
そう聞いた私の方を振り返った彼の顔も…
全く笑っていなかったから…
私はそのすぐ後でコンビニを辞めました。
正直、彼の話の真偽は分からないままです。
そもそも本当に人が一人消えたとして、何事もなく日常を継続出来るものなのでしょうか?
でも、もし彼が話したことが真実なら、『神隠し』、昔から言われるそういうものって、誰も知らないし漏れることもない、その小さな人間関係の中だけで行われる謎めいた因習が、外の誰にも気付かれないまま実行された結果なのかもしれません…
秋田の雪深い山奥の集落で、極寒の冬の夜に消えた彼の兄は、今も誰にも探してもらえないままなのでしょうか…
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