
体験場所:神奈川県秦野市
昨今『山ガール』などと呼ばれるように、山歩きを楽しむ女性が増えましたが、昔はちょっと異質に見られることもありました。
女性が一人で山道を歩いていると、つい心配してしまうというハイカーもいて、私も若い頃には声を掛けられたことがあります。
今から数年前、もう若くなかった私は、トレッキングのトレーニングに使われることの多い小田急線沿線の低山をよく歩いていました。
都心からのアクセスが良く、標高も手頃なことで人気の低山で、女性ハイカーのグループで賑わうコースです。
しかし、さすがに平日となると人出もぼちぼちといった感じで、その日、私は一人、その静かな山道を歩いていました。
先ほどハイペースのベテランハイカーが追い抜きざまに「お一人ですか、気をつけて」と声を掛けてくれました。
若くはなくても女性一人は心配してもらえるんだなと、私はなんとなく嬉しく思って挨拶を返し、そのベテランハイカーを見送りました。ベテランハイカーは分岐点で尾根づたいに続くロングコースへと入っていったようです。
私は多くの女性ハイカーが行く、なだらかな展望コースへ進みます。
この先は見通しが良く景色の良い道が続くので、のんびり自分のペースで歩くのが基本です。私はぽっくりぽっくりといった具合に、のんきに景色を楽しみながら歩いていました。
すると間もなくして、私が進む山道の先に、一人で歩く女性の後ろ姿が見え、私はヒュッと息を飲みました。
女性の一人歩き自体はもはや普通の光景なのですが、ぎょっとしたのは、その女性はまるで、丸の内のオフィス街でも歩いているような服装だったんです。
ここは低山の緩やかな山道ではありますが、それでもやはり運動靴くらいは必要ですし、スカートでは虫刺されや怪我の恐れもあります。
にも関わらず、その女性は大きなフリルの付いた薄い生地のブラウスに、ひらひらとした花柄の膝丈スカート、足元はハイヒールで、小さなショルダーバッグを下げて歩いてるんです。
この世のものだよな?と疑ってしまうほど、山には似つかわしくない姿です。
メイクもばっちりで、乱れてはいますが髪もきれいに巻いてありました。
顔が見える距離に近付いたので、山道でよくするように「こんにちはー」と声を掛けましたが、きょとんとした様子で、やはり山ガールでもなさそうです。
どうしようかなと迷いましたが、いったん追い抜いた上で、相手の様子が分かる程度の距離を保ちつつ先行することにしました。
すれ違いざまに香水が香ります。
そのから少しの間はそこそこ順調そうだった女性でしたが、丸の内OLスタイルではさすがにハイヒールがきついのか、ペースが乱れてどんどん休みがちになっていきました。
ある程度わたしとの距離も離れ始めたところで、女性の歩みはとうとう止まってしまいました。
私は心配になり、お節介かもしれませんが、女性のところへ戻り安否確認することにしました。
「なぜそんな格好で…」という言葉を飲み込んで、大丈夫かと声を掛けると、丸の内OLは、まるでオフィスで少し立ちくらみしてしまった程度ですよ、といった微笑みで「大丈夫です~」と返事をしました。
ピアスと華奢なネックレスのチェーンが、太陽光を反射してキラキラと人工的な光を放っています。
私はこの丸の内OLの周りだけが、どこかの高層ビルオフィスなんじゃないかと思うぐらい、周囲の空間とは余りに不釣り合いで、少し気味悪く思いました。
なぜこんなところにヒールでやって来て、髪を振り乱しながらも華やかに微笑んで見せるのだろう?
もしかしたらメンタルがおかしいのだろうか?
そんな違和感を感じながらも、それでもさすがにジュース一本持っていないというのは心配なので、まだ空けていなかったペットボトルの水を差し出して、丸の内OLのそばを離れました。
後ろから女性ハイカーグループが迫っており、おそらく彼女たちもこの丸の内OLに気が付くだろうとも考え、私は再び自分のペースで進むことにしたのです。
改めてのんびりと歩みを進め、コースの最高地点に到着。道を折り返したところで先ほどの女性ハイカーグループと鉢合わせになり、声を掛けられました。案の定、あの丸の内OLのことで私に声を掛けたようです。
やはり彼女たちも心配であの女性に声を掛けたものの、無視されたそうなのです。
あらら、その態度も丸の内スタイルなのか?と思い、グループと別れて山を下っていくと、コースの道端にうずくまるように座っている丸の内OLがいました。どうやら足に限界がきたようです。
声を掛けるとまた「大丈夫です~」と微笑まれましたが、もう先程までの余裕はなさそうでした。
お互いの汗の匂いに混じって、香水の残り香がわずかに漂います。
すると先ほどの女性ハイカーグループも頂上での休憩を終えて折り返して来ました。
私は彼女たちに事情を伝え、このままでは心配なので、丸の内OLをどうにかしようと相談を始めました。
しかし当人は事の重大さが全く分かっていないようです。彼女からすれば、電車で着いた駅から歩き始めたこの山も、いわば都心のビル街と地続きのイメージなのかもしれません。
そんなフワフワとした様子の丸の内OLに、女性ハイカーの一人が聞きました。
「そんな格好で、何をしにこんなところへ来たの?」
誰もが知りたくて、でもなんか聞いてはいけないようなその疑問。よくぞという気持ちと、そんなこと聞いて平気なのかという不安の中、みんなが丸の内OLの返事を待ちました。
すると、乱れた巻き髪をかきあげて、華やかな微笑みを浮かべて丸の内OLはこう答えたのです。
「死にたくて~」
その場にいた全員が息を飲み、一瞬で凍り付くのが分かりました。明らかな狂気を全員が理解したのです。
丸の内OLが言うには、通勤電車の中で衝動的に自殺を思い付き、車内広告にあったこのハイキングコースを見て、そのまま通勤路から真っ直ぐここへ来たのだと言います。
おっとりとした口調で、微笑みを絶やさずそう話す彼女の姿に誰もがゾッとし、かける言葉も思いつきませんでした。
ともかく女性ハイカーグループが110番することになり、私は駆け付けた救急隊に多少の事情説明をしてその場を去りました。
今でもあの時感じたあらゆる違和感が心のどこかに沈殿しています。
山道でいきなり巻き髪フルメイクのハイヒールに出会った異物感。首筋のネックレスの残光と、山道に漂う化粧と香水の不自然な香り。巻き髪は乱れ、ファンデーションは汗でよれ、それでもくっきりと塗られた口紅と、その奥に覗く白い歯のミスマッチ。
「死にたくて~」
晴れやかな笑顔と張りのある声で発せられたその言葉が、とにかく歪で違和感で…
チグハグなこれら一連の記憶を思い出す度、今でも私は冷たい手で心臓を握られたような、そんな気持ちになるのです。
その後、丸の内OL女性がどうなったのかは分かりません。
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