体験場所:東京都新宿区百人町
これは今から六十年ほど前の話になります。
当時、まだ私は六歳で、小学校に上がりたての頃でした。
私の生家は新宿の百人町という所にあって、父は大手電機メーカーでサラリーマンとして勤め、家では雇用人を一人使って文具店を営んでいました。
ようやく戦後の復興を果たしたとはいえ、戦争の爪跡はまだ此処彼処に残っている時代でした。
私が今でもよく覚えている当時の光景に、軍帽を被り白い気流しの様な着物を羽織った兵隊さんが、新宿駅の辺りで物乞いをしている姿があります。
片腕がなかったり片足がなかったりといった兵隊さん達が、路面にしゃがみ込んで物乞いをしていたのです。
そうした敗戦国の臭いが当時はまだ街中に広がっているような時代でした。
新宿駅の北側に広がる百人町、私が暮らしていたその三丁目は、山手線の新大久保駅から歩いて十分ほどの所にあります。
今でこそ辺りには東京山手メディカルセンターや東京都健康安全研究サンターなどの巨大施設が建ち並んでいますが、当時は新宿のお膝元にも関わらず、当たり前のように井戸が使われていて、便所のない家も多かったため、戦後の復興期に建てられたと思われる木造バラックの汚い共同便所があちこちで目に着く貧しいところでした。
また戦時中の面影を残すような場所も多く、有刺鉄線が張られ杭で囲われた広い空き地や、高さ三メートルはありそうな灰色の塀で囲われた敷地には、朽ち落ちたコンクリートやレンガ造りの建物が撤去されずにそのまま残されていました。
私が大学生の時にこの世を去った母親から、幼い頃に聞かされた話によると、その建物跡はもともと旧日本軍の研究施設で、東京大空襲の際に破壊され、施設の職員や軍人が大勢亡くなった場所なのだと聞かされました。
そんな曰く付きの土地だった為か、その周囲ではよく人骨を咥えた野犬が目撃されたり、軍服を着た日本兵の幽霊を見たなどと話す人も多くいました。
「あそこで遊ぶんじゃないよ!」
と、母親からよく言われたものですが、幼かった当時の私にはそれがどういうことなのかいまいち飲み込めず、私にとってその廃墟群は、生まれた時から近所にあった馴染みの場所という感覚でしかありませんでした。
ですので、今と違って町内の絆が強かったあの時代、私たち子供も近所の年長を頭にして集まっては、その空地の有刺鉄線をすり抜けて忍び込み、その廃墟の中でしょっちゅう遊んだものでした。
そんなふうに、戦争の怨念を生々しく残す不気味な廃墟が散在したそのエリアで、今でも私が不可解に感じているある事件が起こったのです。
私の家の斜め向かいに、店舗名はもう忘れてしまいましたが、一軒の魚屋がありました。
その魚屋には美智子という名前の私と同い年の娘がいて、みっちゃんと呼んでよく一緒に遊んでいました。
それともう一人、私達には同じ幼稚園から同じ小学校に上がった正夫という友達もいて、三人は学校が休みになると示し合せては例の廃墟に入り込み、おしゃべりをしたり、かくれんぼをしたりして遊んでいました。
今でもよく覚えています。
あれは小学校に上がって初めて迎えた夏休みの初日、良く晴れた日のことでした。
私たちはいつものように三人で廃墟に遊びに行きました。
その廃墟は赤茶けたレンガで造られていましたが、爆風によるものなのでしょう、窓枠などは全く残っておらず、天井も吹き飛ばされてありませんでした。
中には部屋の仕切りが多少は残っていたものの、露出した地面には草が生えている荒れ果てた状態です。
当時はそのような廃墟の光景は当然のものだったのですが、全てが荒廃した中でただ一つだけ異様に感じたのが、爆撃を受ける前にはきっと大きく立派な鏡だったのでしょうが、割れてしまってはいましたが、その鏡の一部が壁に張り付いたまま残っていたのです。
しばらくの間みっちゃんが、その壁に残された鏡に映る自分の姿を、ジッと見詰めていたのを覚えています。
その後、私たちはかくれんぼをして遊び始めました。
最初に鬼になった私は、まず最初に正夫を見つけました。
それからみっちゃんを探し回るのですが、いくら探しても見付かりません。
これではかくれんぼが終わらないと、正夫も一緒になって探し始めたのですが、やはりみっちゃんの姿はどこにも見付けられませんでした。
空はだんだんと日が暮れていきます。
夕方までには帰らないと私も正夫も母親に叱られてしまうので、二人して大声でみっちゃんの名前を呼びながら出てくるように促すのですが、とうとう彼女が姿を現すことはありませんでした。
私達は仕方なく「みっちゃーん、先に帰るよー!」とだけ言い残し、そのまま家に帰ってしまったのです。
大騒ぎになったのは、その日の夜半からでした。
夜になってもみっちゃんは帰ってこなかったのです。
私と正夫は駐在所のお巡りさんにしつこく尋問を受け、親からは大目玉を食らいました。
山中でもない都心で子供が行方不明となれば、まず疑われたのは誘拐でした。
娘が行方知れずとなった魚屋のおじさんとおばさんは、気が動転したように血眼になってみっちゃんの行方を捜していました。
しかし、それから三日程して、みっちゃんはひょっこり家に帰って来たのです。
三日間どこで何をしていたのか、いくら聞いてもみっちゃんは何も答えなかったそうです。
それから一週間ほど、みっちゃんは近くの病院に入院していましたが、退院後はまた以前と同じように私と正夫と三人で遊ぶようになりました。
ただ、その頃には私も正夫も、目の前にいるみっちゃんが、以前のみっちゃんとはどこか違ったように感じていたのです。
それから間もなくして、私は小学校二年生の二学期に、父親の仕事の都合で横浜に引っ越し、それ以降みっちゃんとは疎遠になりました。
以上が、私が六十年ほど前に体験した出来事です。
因みに、私には三つ年上の姉がいます。
姉も当然みっちゃんのことは知っています。
最近になって昔が懐かしくなり、姉にこの時の話をしたのですが、すると姉がおかしなことを言うのです。
「みっちゃんって確か右の頬に、そんなに大きくはなかったけどホクロがあったわよね。それがあの事件の後になるとね、みっちゃんのその右頬のホクロがなくなってて、その代わりって言うのかね、左の頬の同じ所に同じようなホクロが出来てたのよ。」
そのホクロの色にちょっとした特徴があったので、姉は気になって覚えていたのだそうです。
姉のこの記憶が何を意味しているのか…
私と正夫が感じたあの感覚は、間違いではなかったのか…
『今までのみっちゃんとはどこか違う』
みちゃんが行方不明になっていた空白の三日間。
その直前、みっちゃんがジッと見つめていた廃墟に残る割れ鏡。
そして、帰ってきたみっちゃんの左右反対のホクロ。
この不可解な一連の出来事には何か関係があったのでしょうか。
今はもう百人町に、私の生家も、その斜向かいにあった魚屋もありません。
区画整理が行われ、その事件のことを知る人達もいなくなってしまったようです。
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