体験場所:東京都T区の某病院
これは東京都T区のとある病院で、私が看護師として勤務していた時の話です。
その病院は比較的大きな総合病院で、患者数も多く、そのぶん重症患者も多く診ていたため、毎日複数人の方がお亡くなりになるような病院でした。

それぞれの病棟には『監察室』という病室が設けられていたのですが、そこは病状が悪化し、死期が迫っている患者様に入って頂く病室で、いつでもすぐに対応できるよう、ナースステーションから1番近い場所にありました。
その頃の私が担当する患者様に、余命数日と宣告されていたAさんという方がいました。
その日、Aさんの病状がみるみる悪化し、本格的に死期が迫っていることを感じた私は、Aさんを監察室へ移動させることに決めました。
ですが、Aさんを監察室へお連れすると、部屋に入るなりAさんが、
「この部屋はカリカリ音がうるさいから嫌だ」
と言いました。
しかし私にはナースステーションから聞こえる電子音以外、特に他の音は聞こえません。
もしかしたらナースステーションからの音が気になるのかと思い、ステーション内の電子音を少し下げることを提案し、なんとかAさんに監察室へ入ることを納得していただきました。
しかし、その後もAさんから何度もナースコールがあり、
「カリカリという音がどんどん大きくなっていく」
「下からどんどん登って来るように近づいてくる」
「カリカリカリカリうるさくて寝ていられない」
と、繰り返し訴えられました。
しかし私以外の看護師に確認したらもらっても、結局そのような音は誰の耳にも聞こえませんでした。
その後、看護師間で話し合いましたが、Aさんの病状を考えると監察室からの移動は不可能という総意の元、医師に相談し、軽い精神安定剤を使用することになりました。
精神安定剤によってAさんは少し落ち着きを取り戻したようで、ナースコールの使用も減り、ようやくAさんもゆっくり休めたように思いました。
それから数日が経ったある日、夜も深まった午前2時頃でした。
見回りでAさんの部屋を訪れると、目を見開いたAさんが苦しそうにはぁはぁと肩で息をしています。
「Aさん、息苦しいですか?苦しいのが少し楽になるお薬使いましょうか?」
と聞くと、Aさんは天井の一点をじーっと見つめながら、
「来た。枕元に来た。壁を登って、とうとう俺のところまで来てしまった。俺の顔の横にいる。」
と言うのです。
深夜ということもあり、私はAさんの言動を不気味に感じました。ただ、お亡くなりになる前は意識が混沌とされる方も多く、「幻覚や幻聴が見えているのかも」と思い直し、私はなんとか平常心を保ちました。
その後、Aさんの意識は徐々に薄らぎ、ゆっくりと呼吸が減っていき、急いでお呼びしたご家族に見守られながらお亡くなりになりました。
その後は死後処置に追われ、私はすっかりAさんの言っていた『壁を登る音』について忘れていました。
全ての処置が終わり、Aさんを霊安室へ届けに行った帰りのこと、病棟の下の階で働いている同期とちょうどエレベーターで一緒になりました。
その同期も私と同じく、夜勤中に患者様を看取ったらしく、霊安室へご家族の忘れ物を届けに行った帰りだったそうなのですが、その同期が「とても嫌な体験をした」と言って、こんなことを話し始めたのです。
「今日看取った患者さんが霊感のある人だったみたいでさ、監察室に入ってからは『壁を女の人が登ってくる!登ってくる!』って言ってすごく嫌がるの。その剣幕がすごくて、私まで怖くなっちゃってさ…。しかも、その女の人が近づいて来るって言うたび、どんどん患者さんの病状も悪くなっていって、壁を登る女の人っていうのが本当に死を運んで来てるみたいでさ、すごく怖かったよ」

Aさんが言っていた事とあまりに似通っています。
横で青くなっている私をよそに、更に同期は続けました。
「私のところの患者さん、亡くなる直前まで意識があって、亡くなる前にね、『私の死は決まったから、今度は上に移動するみたいだ。上の人も今日連れて行かれるのね』って言ってたんだけど、あなたのところの亡くなった患者さんって、もしかしてうちの患者さんのちょうど真上の監察室だった?」
と聞かれたのです。
(Aさんが言っていた事って、このことなのか…)
私は同期に返事を返すのも忘れたまま、鳥肌が止まらなくなりました。
「この部屋はカリカリ音がうるさいからいやだ」
一体Aさんが聞いていた音はなんだったのでしょうか…
壁を登り、死を運んでくる女。
院内をそんなものが這いずり回っているのかと想像すると、あの病院を辞めた今でも背筋が冷たくなります。


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