体験場所:高知県高知市 とある民家の庭
私には仕事帰りによく立ち寄る本屋さんがありました。
疲れを癒すのに一番いい方法が面白い本に出会うこと。そう思っていた私は、しんどい仕事が終わった時は、いつもその本屋さんを見て回って、面白そうな小説を探しては購入していたのです。
その本屋からの帰り道に、大きな木が植えてある民家がありました。
お庭が広々していて、私も家を建てたらこんな庭にしたいなと思う理想的な庭だったので、いつもそのお庭を眺めながら帰っていました。
すると、そのお庭から、いつも決まって挨拶をしてくれるおばあさんさんがいました。
最初は顔を下げる程度の挨拶だったのですが、私がよく通るので顔を覚えてくれたのか、たまに声をかけて下さって、そのうち立ち話をするようにもなり、「柿が生ったから」「お花が咲いたから」と、庭で採れたものを分けて下さったりして、とても優しいおばあさんでした。
そんな時は、なんとなく田舎の地元を思い出し、私はすごく暖かい気持ちになるのです。
おばあさんは、少なくとも私がその庭の前を通る時は必ずいました。
穏やかで柔和な感じのおばあさんで、見かけるといつもお花に水をやっていたり、畑の草むしりをしていたり、必ずお庭で何か作業をしていました。
たまに家の中からキャッキャと子供の笑い声が聞こえてきて、「お孫さん、元気ですね」なんて話したこともあります。
孫はとてもかわいいと、にこにこ嬉しそうに笑うおばあさんの姿が印象的でした。
ある日のことでした。
いつもの帰り道、いつも通りお庭を覗くと、決まってそこにいるはずのおばあさんの姿がありませんでした。
いつも必ずといっていいくらいお庭にいる人だったので、私は少し気になったのですが…
その日を境に、おばあさんの姿を全く見かけなくなりました。
もしかしたら、おばあさんに何かあったのかもしれない、そう思うと気持ちが落ち着かなくて、私は意を決してその日の帰り道、おばあさんの家のインターフォンを押しました。
どうしてもおばあさんのことが心配だったのです。
すると、家の中から明るい声が聞こえてきて、人が出てきました。
それは、今まで見たことのない20代くらいの若い女性だったので、私は驚きました。
尋ねてみると「1週間前に引っ越してきた斎藤です」と挨拶されました。
そこで初めて、この家に別の人が引っ越して来ていたことを知ったのです。
これまでの経緯と今日訪ねた理由を話した上で、「前に住んでいたおばあさんは、今どちらに?」と私は聞いてみました。
引越されてしてしまったことは残念でしたが、とりあえず、おばあさんの安否が知りたかったのです。
そしたら、斎藤さんと名乗るその人は首を傾げてこう言ったのです。
「私たちがこの家を借りる前には、この家は空き家だったと聞いてますが…」
と、不思議そうにして繁々と私を見つめてきます。
そんなはずはないと思い、おばあさんの外見や特徴を詳しく説明しました。
でも、やっぱりその人には、全く心当たりが無いようでした。
私は釈然としないまま、その日はすごすごと家に帰りました。
ただ後日、いつもの本屋の帰り道、あの庭の前を通るとこの斎藤さんに引き止められ、
「やっぱり7~8年ほどの間、この家は空き家だったみたいですよ」
と教えられたのです。
斎藤さんが聞いてくれた限りの話では、この家に人が住んでいたのはもう随分前のことらしく、以前に住まわれていたのは仲の良いおしどり夫婦だったそうです。いつも二人一緒のようなご夫婦だったとか。
「でも、その旦那さんが不慮の事故で亡くなってしまうと、それを追うように奥さんも病で…」
と、斎藤さんが心苦しそうに話してくれたのは、前の住人の悲しい話でした。
しかし、その二人はまだ若い夫婦だったそうで、おばあさんの事はやっぱり分からないと、申し訳なさそうに教えてくれました。
ただ、そんな話を聞きながら庭を眺めていると、私はそこでふと気が付いたことがあるありました。
庭に植えてあったはずのあの大きな木が、無くなっているのです。
聞いてみると、斎藤さんの旦那さんが、邪魔だからと言って切ってしまったそうなのです。
それを聞いて、私はなんだかうっすらと寂しい気持ちになりました。
思い出すとおばあさんはいつもあの木の下で、お花に水をあげたり、草引きをしたりしていました。
むしろ、その木の下から離れた場所にいるのを見たことがないくらいです。
私は少しだけ、あの木が優しく佇んでいる姿と、優しく声をかけてくれるおばあさんの姿が、ダブって見えたような気がしました。
もしかしたら、あの人は人間ではなく、あの大きな木の精霊だったのかもしれない。
そんな風にも、私には思えるのです。
正直なところは分かりませんが、ただ、絶対に悪い何かではなかったと、それだけは間違いないと。
今は、あの民家の前を通ると、少し寂しく、懐かしい気持ちになります。
コメント