体験場所:佐賀県佐賀市
これは、佐賀県にある母の実家に、母と一緒に帰省した時の話です。
佐賀駅から車で30分ほど走ると、母の実家に到着します。
天山という山のふもとにある小さな集落で、周りには山と田んぼしか見当たりません。今では住んでいる人も少なくなり、逆に貴重な自然が多く残るようなところです。
魚釣りが趣味の私は、母の実家に行くと、いつも近所の川で釣りを楽しんでいました。
その時も、着いて早々いつも通り釣りに出掛けようとすると、これまたいつもの通り母から「沢を登るのは良いけど絶対に滝の上まで行ってはいけないよ」と言われました。
その滝の上は昔から神様が住んでいると言われる聖域で、人が立ち入ってはいけない場所なのだということです。
幽霊や伝説など、その類の話は全く信じない理系人間の私は、その時もハイハイと適当に返事をし、気にすることなく釣りに出かけたんです。
川に着くと、夏だと言うのにひんやりとした気持ちのいい空気が流れてきます。
早速、綺麗な川を登りながら釣りを始めると、開始早々に数匹のヤマメが釣れたのですが、そのどれもがまだ小さかったので、残念ながら川へ返すことにしました。
とは言え、爆釣の兆しを感じながら更に沢を登り続けると、次第に釣れるヤマメのサイズも大きくなり、否応なく期待も膨らみます。
20分ほど沢を登った頃でしょうか、目の前に10mほどの大きな滝が見えてきました。
絶対に上に行ってはいけないと母に言われた滝です。
ですが、釣り人の勘でしょうか、ふと滝の上には大物が居ると思ったのです。
私は母から言われた言葉も忘れ、気が付いた時には滝の横にある細い獣道を登っていたんです。
案外簡単に登ることが出来た滝の上には、滝つぼの前に大きな池のような水面が広がっていました。
その綺麗な水の中には、下にいたやつとは比べものにならないほど大きなヤマメが、悠々と泳いでいるのが目視できます。
最高のスポットを見つけたと、私は直ぐにルアーを投げ入れました。
しかし、どう言う訳なのでしょうか、全くヤマメが食い付いてくれません。
おかしいなと思いながら、今度は遠投してみようと思い切って竿を振りかぶると、頭上にあった木にルアーを引っ掛けてしまったんです。
仕方なく、私はルアーを回収するために、その木の横にある斜面を登りました。
するとその途中、目の前に小さな祠が現れたんです。
そこには掠れた文字で『蛇』と書かれています。
(これが例の神様か?)
母の言っていた言葉を思い出し、私は少し緊張しながらバチが当たらないようにと、そっとその横を歩き抜けようとした時でした。
目の前に真っ白な蛇が現れたんです。
その荘厳な姿にギョッとして、急に怖くなった私はルアーの回収を諦めて斜面を駆け下りました。
『蛇』と書かれた祠と、その後ろにいた白い蛇。どう考えても意味深なその状況に恐れをなした私は、やっぱり滝を降りようと思い道具を持ち上げようとしたその時でした。
先ほど釣竿を振っていた水面の上、少し向こうに、ぼんやりとした人影が見えたんです。
直ぐ先は滝つぼです。
あんな危険な場所に人が立つとは考えられません。
母の言う『神様』という二文字が否が応にも頭に浮かびます。
(やはり私は聖域を犯してしまったのだろうか…)
そこはかとない不安と恐怖を感じながら、出来るだけその人影を視界に入れないように、道具を抱えて立ち去ろうとしたその時です。
目の前で、さっきの白い蛇がとぐろを巻いてこちらをを睨んでいたんです。
心臓が飛び出るほど驚きました。
(神様の使いなのだろうか?)
行く道を遮ろうとする白蛇を、私は釣り竿をブンブン振って追い払おうとするのですが、その白蛇は微動だにしません。
ふと滝の方を見ると、さっきの人影が少し近寄って手招きしています。
(絶対ヤバいだろ、これ…)
焦りと不安がのしかかる中、再び白蛇の方に目を向けると、さっきまでそこでとぐろを巻いていたはずの白蛇が居なくなっていたんです。
チャンスとばかりに私は駆け出そうとするのですが、おかしいんです。
なぜか足が動かないんです。
ブワッと全身から冷たい汗が浮き上がるのを感じながら、恐る恐る足元を見てみると、いつの間にか足にはツタの様なものがグルグルと巻き付いていたんです。
恐怖でパニックになりました。
少しずつ近付いて来る人影に狼狽えながら、ポケットに入れていたナイフを取り出し、足に絡んだツタを切ろうとするのですが上手く切れません。
その間にも人影は徐々にこちらに近寄ってきます。
さっきまでぼんやりとしか見えていなかったそれは、既に姿がはっきりと見え、真っ白な着物を着た女であることが分かります。
その女が水面をスーッと移動するのではなく、水の中をざぶざぶ歩きながらこちらに近寄って来ているんです。まるで生きている人間のように。
ただ、女は水の中を歩いているにも関わらず、そこに水しぶきや波紋は全く起きていません。
深い場所では胸くらいの水深があるようでしたが、女の体は徐々に水から上がってきています。
女の姿がハッキリしてくるほど私の焦りは増していき、思うようにツタを切り払うことが出来ません。
気付けば女は直ぐ5m程の距離まで接近していて、すでに池の浅瀬を歩いてこちらに近寄って来ます。
青白い顔をした長い髪の女。
神様とか幽霊というよりは、人が亡くなった直後のような顔です。
全く感情が感じられない暗い表情の女は、下を俯きながら声も発さずに近付き、その手が私に向かって伸びて来ました。
もう少しで女の手が触れる、もうダメだ、と思った時です。
その手が私に触れようとした寸前、女が痛みを感じたかのように手を引っ込めたんです。
その理由は全く分かりませんが、このチャンスを逃したらもう絶対に逃げられないと思った私は、必至にツタを切り払い滝の横の獣道を駆け下りました。
その間、怖くて何度か後ろを振り向きましたが、女はそこからこっちを見たまま微動だにしませんでした。
滝の下まで降りた時には既に女の姿は見えなくなっていましたが、私はそのまま沢を駆け下り、田んぼのあぜ道を走り、母の実家に戻るまで止まることはありませんでした。
ようやく母の実家に辿り着き、胸を撫で下ろすと同時に全身から汗が溢れ、私はぜーぜーと肩で呼吸を繰り返していました。
そんな風に取り乱して帰ってきた私を見て、母親が言いました。
「滝の上に行ったのね」
その言葉に頷いて、私はさっきあったことの全てを母親に話したんです。
母親は怒りませんでした。
止めても必ず行くと思っていたのだそうです。
「ポケットの中を見て」
抑揚のない小さな声で母親がそう言うので、私は釣りウェアの上着のポケットをあちこち開けてみると、あまり使わない一番小さなポケットの中から見慣れないお守りが出てきました。
私が絶対に滝の上に行ってしまうと思っていた母親が、知らぬ間に仕込んでいてくれたんです。
あの時、私に触れようとした女の手が急に引っ込んだのは、これのお陰だったんです。
私はこの時ほど、母親に感謝したことはありませんでした。
その後、今度は真剣に、私は母からあの滝にまつわる話を聞いたんです。
滝の上は白い蛇が住む神聖な場所として、昔から村人たちから畏怖されていたのだそうです。
それはこの村で昔から執り行われている『天衝(てんつき)』という五穀豊穣を願う秋祭りに由来すると言います。
その祭では昔から『天衝舞(てんつきまい)』という舞が披露されるそうなのですが、かつてはその出来栄え如何では、切腹を命じられるという時代もあったそうなのです。
ある時の祭で、天衝舞を踊り損じた一人の男が切腹を言い渡され、夫の死に絶望したその妻が、あの滝の上から身を投げ飛び込んだのだと言います。
それから村には不作が続き、きっと女の祟りだと恐れた村人たちが、その魂を鎮めるために滝の上に祠を作ったのだそうです。
祠にはいつの間にか白い蛇が住み着き、それを女の化身だと畏怖した村人たちは、決してその地には足を踏み入れなくなったのだということでした。
改めて真剣にその話を聞いた私は、自分の体験したことを思い返しながらゾッとしました。
それまで非科学的なことには全く聞く耳を持たなかった私ですが、あの体験以来、実際に言い伝えられている伝説には何かしらの理由があるものなのだと考えを改めました。
過去に何かあったからこそ、語り継がれる話があるのだと。
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