体験場所:三重県S市の某ビジネスホテル
あれは20年程前の事です。
当時、某物流会社に勤めていた私は、福岡から本社のある三重県S市に転勤で引っ越す事になりました。
その際、アパートは会社の総務で手配する事になっていたのですが、不動産屋の手違いから、部屋の受け渡しが予定より一週間延びる事になってしまいました。
無宿人となってしまった一週間の間、家財道具は自社のトラックで運んでもらっていたので、取り敢えずそのまま本社に隣接する倉庫に保管してもらい、私自身は総務が手配してくれたビジネスホテルに一週間泊まり込むことになりました。
会社から5分程のところにあるそのビジネスホテルは、外観からして古さが滲む年期の入ったホテルでした。
フロントで鍵をもらい部屋へ入ると、一瞬ですが妙な違和感を覚えました。
(…誰か、いる?)
部屋に備え付けられたベッドの足元の辺りから、視線のようなものを感じたのです。

しかしその違和感もすぐに消え、特にそれ以上は気にすることも無く、その日はそのまま就寝しました。
新しい職場での仕事に慣れるのに必死で、ビジネスホテル通いの一週間は慌ただしく過ぎ、いよいよ明日は引っ越しだという夜のことでした。
新しい職場での歓迎会を終えてホテルに戻った私は、明日の引っ越しの事を考えながらウトウト目を閉じました。
すると、微かではありますが、誰かの声が聞こえたのです。
(…ん、何だろう?)
まあ繁華街に近いホテルだった上、その日は週末。外の酔っ払いが大声でも出しているのだろう、と、最初は思ったのですが、何かが違うんです。
微かな声ですが、それは間違いなく私の耳元で囁いている。

そう思った瞬間、上半身に何とも言えない圧迫感を覚えました。
(え!?なんだ!?)
いつの間に現われたのか、上半身の上を何かが這っている…
突然現れたそれは、明らかに重みとしての実感がありました。
(うわ~これは絶対だめだ~)
絶対に見たくないのですが、見なきゃ見ないで怖すぎる。
自分の中の矛盾と葛藤しながら、恐る恐る目を開けると、私に馬乗りになった髪の長い女が、そのまま前のめりになり、悲しげな笑みを浮かべて私の耳元で何か呟いています。

頭が真っ白になりました。
状況が飲み込めず、ジトッとした汗が体中から湧き出して来ます。
必死で起き上がろうとしますが、体が硬直して自由がききません。
もがく私を見つめながら、女はひたすら何かを呟いています。
常軌を逸した状況に、もはや私は抗うことをやめ、女の呟きを聞き取る為に耳の鼓膜に全神経を集中させました。
すると…
『ねえ、行かないで…』
そう細く呟く女の声が聞こえました。
(は?何言ってんのこいつ?意味わかんねーし)
私は打開策を見い出すことよりも、その女の理不尽さに腹が立ち、とにかく女を振り払おうと再び必死にもがき始めたんです。
すると突然、腹の辺りに激痛を感じて私は悶絶しました。
涙をこらえながら痛む箇所を見ると、女が引き攣った笑みを浮かべながら、ナイフを私の腹に突き立てているではありませんか。

私は激痛と恐怖と怒りで震えが止まりませんでした。
『一緒に逝こう…』
女のその言葉を聞きながら、私の意識は薄れていきました。
気がつくと、私は病院のベッドの上でした。
一体自分の身に何が起きたのか理解できず、巡回に来た看護師さんに経緯を聞くと、土曜日の朝方に救急車で運びこまれてきたとの事。意識不明の状態だったが、原因が分からず、医師も困惑していたとのことでした。
後日、お見舞いに来てくれた上司の話によると、チェックアウトを過ぎてもフロントに現れないのを不審に思った従業員が、部屋で倒れている私を発見し119番したということでした。
その後の検査の結果、特に異常は無く、過労という医師の診断もあり、しばらく休んだ後に職場に復帰しました。
後に判明した事ですが、40年程前、あのホテルでは痴情のもつれによる殺人事件があり、女が寝ていた男の腹部を刺したあと、自分の首を掻き切って亡くなったそうなのです。

その事件以来、ホテルはその部屋を封鎖していたらしいのですが、私の会社からの要望を断りきれず、仕方なくあの部屋を解放して私に提供したそうなのです。私が赴任した時期は地元イベントと重なる時期で、どこのホテルも予約が取れなかったことが一因だったようです。
因みに、実はこの体験は職場含めて関係者の誰にも話していません。
どうせ誰も信じてくれないからというのもありますが、もしかしたら、あの女に同情してしまったからかも知れません。
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