
体験場所:埼玉県秩父郡の山中
これは、二年ほど前の秋、俺が実際に体験した話だ。
俺は自営業で食品の卸売をしている。自前の二トン保冷トラックで、埼玉県内やその近郊にある飲食店へ商品を届けるのが仕事だ。相手の都合によっては、配送が深夜になることも珍しくない。
その日も、急な追加注文が入った。
秩父方面にある取引先へ商品を届け、ようやく仕事を終えた俺は、トラックを走らせて帰路についていた。ところが途中、いつも使っている国道が夜間工事で通行止めになっていた。
仕方なくナビで迂回路を検索すると、山際を通る一本の旧道が表示された。少し遠回りになるものの、そこを抜ければ再び国道へ戻れるらしい。
俺は深く考えず、その道へ入った。
時刻は、午前一時を少し回っていたと思う。
しばらく走ると、民家もほとんど見えなくなった。
街灯も、忘れた頃に一本見えてくる程度。ヘッドライトをハイビームにしても、現れるのは道路と両脇に迫る雑木林だけだった。対向車も来ない。後続車もいない。聞こえるのは、トラックのエンジン音だけ。
そんな道を、十五分ほど走った頃だった。
右カーブの先に、ぽつんと建物が見えてきた。
古い、住宅が一緒になった商店のような建物だった。
一階部分が店になっているのだが、シャッターは完全に下りている。軒先も黒ずみ、看板の文字もほとんど剥げ落ちていた。どう見ても営業している店ではない。
「こんな山奥にも、以前は店があったんだな」
そんなことを思いながら、通り過ぎようとした。
その時だった。
ヘッドライトが照らす光の中に、人が立っているのが見えた。
店の軒下だった。
六十代くらいだろうか。小柄な男だった。白いポロシャツに、紺色の作業ズボン。右手には、黄色い雑巾のようなものを持っている。その雑巾で、男は店の横に取り付けられたコカ・コーラの古い金属看板を拭いていた。
最初は「店の人か?」と思った。
だが、すぐにおかしいと気づいた。
時刻は、深夜一時半。真っ暗な山の中だ。周囲には街灯もなく、車だってほとんど通らない。しかも、その店はどう見ても営業していない。こんな時間に、なぜ看板なんか拭いている?
気になって、俺は無意識にアクセルを緩めた。トラックは時速二十キロくらいまで落ちていたと思う。
男のすぐ横を通り過ぎようとした時、俺は、その違和感に気づいた。
男は黄色い雑巾を持ち、看板に向かって腕を上下に動かしている。
上から下へ。
下から上へ。
同じ動作を、ひたすら繰り返している。
ただ――。
雑巾は、看板に触れていなかった。
雑巾と看板の間には、確かに空間が空いていた。
この男は看板を拭いているのではない。
看板から少し離れた空中を拭いている。
上から下へ。
下から上へ。
まったく同じ速さ。同じ軌道。
あまりにも正確で、機械みたいだった。
そう思った瞬間、背中がぞくっとした。
他にも不自然な点があった。
俺のトラックが、エンジン音を響かせ、すぐ横を通っている。ヘッドライトだって、まともに男を照らしていた。他に車も通らない、こんな暗い山道でだ。
普通なら、一度くらいこちらを見るはずだ。
それなのに、男は一度も振り向かなかった。
顔は真正面を向いたまま、目は大きく見開いている。けれど、その視線が看板を向いているようには見えなかった。どこにも焦点が合っていない、ガラス玉のような目だった。
その男が、ただひたすら雑巾を上下させ、空中を拭き続けていた。
「おいおい……なんだ、あれ……」
思わず、声が出た。
俺はそのまま男の前を通過した。
けれど、どうしても気になって、ミラー越しに後ろを見た。
赤いテールランプの光が、遠ざかっていく店先をぼんやり照らしてる。男は、まだそこにいて、雑巾を上下させていた。同じ動き、一定の速度のまま。
さすがに怖くなって、俺はアクセルを踏み込んだ。それからは一度も後ろを見なかった。とにかく早くあの道を抜けたかった。
しばらく走って国道へ戻り、コンビニの明かりが見えた時、ようやく少しだけ息がつけた。でも、停車する気にはなれず、そのまま一気に会社まで走り続けた。
数日後。
地元の道に詳しいベテランドライバーの先輩と話す機会があって、俺は、あの旧道のことを聞いてみた。
「あの道に、古い商店あるじゃないですか。コーラの看板がある……」
すると先輩は、
「ああ、あそこか」
と、すぐに場所が分かったようだった。
俺は、深夜そこで見た男の話をした。
白いポロシャツ。
紺色の作業ズボン。
黄色い雑巾。
そして、男がずっと、看板の前の空中を拭いていたこと。
そこまで話すと、先輩の表情が変わった。
「……お前、それ本当に見たのか?」
「見ましたよ。店の人じゃないんですか?」
そう聞くと、先輩は少し黙ってから言った。
「あそこの商店、十五年以上前に廃業してるぞ」
俺は言葉が出なかった。
先輩は続けた。
「店主が亡くなって、それっきりだよ」
そして、少し考えるようにしてから、こんなことを教えてくれた。
その店主は晩年、認知症を患っていたらしい。
店をまともに営業できなくなって、廃業した後も、夜中になると一人で外へ出て、店の看板を何度も何度も拭いていたという。家族が気づかないうちに外へ出てしまい、警察に保護されたこともあったそうだ。
俺は何も言えなかった。
あの夜、俺が見た男。
白いポロシャツ。
紺色の作業ズボン。
宙を上下する黄色い雑巾。
あれは、本当に昔の店主だったのだろうか。
それとも、廃屋に入り込んだ誰かだったのか。
今でも分からない。
ただ、一つ。
どうしても忘れられないことがある。
男の左手首には、大きな腕時計がはめられていた。今ではあまり見かけない、金色のデジタル腕時計だった。トラックのヘッドライトが当たった時、金色のベルトだけが妙にぎらっと光ったのを覚えている。
なのに、肝心の文字盤は、真っ黒だった。数字も、時刻も、何も表示されていなかった。
電池が切れていただけなのかもしれない。それなら、それでいい。
けれど俺には、あの時計が、ずっと昔のある時刻で止まったまま、男の手首に巻かれているように思えた。
それ以来、俺は、どれだけ遠回りになっても、深夜のあの旧道だけは通らないようにしている。

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