
体験場所:静岡県I市A峠付近
これは数年前、私がまだ大学生だった時の体験です。
当時、静岡県I市のA峠に近い山間部で、道路の補修工事が行われており、私は現場の端で交通誘導を任されていました。現場周辺には街灯が全くなく、夜は自分の持つ誘導灯の光以外、何も見えないような深い闇に包まれます。一時間に一台も車が通らないような、非常に静かで不気味な場所でした。
その日、私は地元出身だという60代後半のベテラン警備員Yさんとペアを組んでいました。
作業開始前、Yさんは私の肩を掴み、非常に真剣な表情でこう言いました。
「いいか、もし深夜2時から2時15分の間に、旧道に繋がる脇道の方から白いセダンが来たら、絶対に中を覗き込むんじゃない。深くお辞儀をして、車が通り過ぎてエンジン音が聞こえなくなるまで、絶対に顔を上げるなよ」
私は最初、その土地の有力者か、あるいは少し気難しい地主の方でも通るのだろうかと考え、「分かりました、失礼のないようにします」と答えました。しかし、Yさんの目は全く緩むことなく、何か恐ろしいものを警戒しているような、異様な緊張感が漂っていました。
道路工事の開始と共に交通誘導も始まります。
ですが、ほぼ車が通らない道のため、私は誘導灯を手の平の上でクルクル回したり、何もない地面をザッザッと蹴ったり、暇を持て余していました。
深夜2時を過ぎた頃です。
山特有の、いやに冷たく湿った霧が立ち込めてきました。
すると突然、私の持つ無線機に「上、一台行くぞ」と連絡が入りました。
「分かりました」と応答して、通行車両を待ちます。ですが、何かおかしいのです。現場はほぼ直線の一本道。霧がかっているとはいえ、本来なら向かってくる車のヘッドライトの光が見えてもいいはずなのに、それが全くありません。
おかしいと思い、道の先に目を凝らしていると、不意に霧の向こうから、ぬうっと「白いセダン」が姿を現しました。
驚きました。唐突に現れたのもそうですが、もっと驚いたのは、その静かさです。エンジン音も、タイヤが砂利を踏む音も一切しません。まるで水面を滑るように、音もなくこちらへ近づいてきたのです。
向かってきた車は白いセダンです。ハッと、Yさんの忠告を思い出し、私はすぐに道路の端に寄って深く頭を下げました。
しかし、人間というのは「見るな」と言われれば言われるほど気になってしまうものです。車が私の真横を通り過ぎようとした瞬間、好奇心に負け、ほんの一瞬だけ視線を上げて車内を覗き込んでしまいました。
灯り一つない暗闇の中、車内だけがぼんやりと青白く発光しているように見えました。
運転席には背広を着た男が座っています。しかし、その顔を見て私は凍り付きました。
そいつの顔は、目も鼻も口もなく、まるで作りかけの粘土細工のように、のっぺりとした肉塊なのです。それが波打って揺れています。その指先も、やはり作りかけみたいに細かく分かれてなくて、まるで棒みたいな手をハンドルの上に乗せているのです。
さらにゾッとしたのは、後部座席です。子供くらいの大きさの影が三つ、身動きもせず並んで座っていましたが、彼らもまた人間らしい質感が一切なく、粘土を無理やり人の形にこねたような、不完全で不気味な姿をしていました
車が私の目の前を通り過ぎる瞬間、その「粘土細工」たちは、ギギギ…と音が立つような乱雑な動きで、一斉に首だけがこちらを振り向きました。目も付いていない彼らに、確実に「見られた」と直感しました。
心臓が握りつぶされるような恐怖を感じ、私は慌てて視線を地面に落としました。
車が通り過ぎてからも、しばらく私は動くことができませんでした。ただただ体の震えを押さえるのに必死でした。
少しして、反対側で誘導していたYさんが血相を変えて走ってきました。
「お前、今……見たのか?」
私が呆然として頷くと、Yさんは深く溜息をつき、声を潜めて言いました。
「あれはこの辺りで『お迎え』と呼ばれているものだ。この時期の深夜、『あっち側の道』を通ってどこかへ向かう。姿を見られても連れていかれることはないが、目をつけられると、しばらく嫌なことが続くぞ」
翌朝、どうしても気になって、私はあの白いセダンが向かった先、Yさんの言う『あっち側の道』を確認しに行きました。
道の先にあったのは、数年前の土砂崩れで完全に崩落してしまった旧道でした。ガードレールも途切れ、それは車が通行できるような状態には決してありませんでした。
その後、私はすぐにアルバイトを辞めました。
Yさんが『お迎え』と呼んでいた、あの粘土細工のような者達は一体何だったのでしょう。
もしかしたら、この世を去ってから、「あちら側の住人」として作り変えられている途中の姿なのもしれない。私はそんな風に思いました。
もしもあの時、もっと長く車内に目を奪われていたら、私はどうなっていたのか、考えるだけで恐ろしいです。
それ以来、夜道で白いセダンを見かけると、あの青白く光る車内と、目も鼻も口もない、作りかけの粘土細工のような顔を思い出してしまうのです。今も私は、I市の山道を夜間に運転することだけは避けています。

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